イエズス会の危機
イエズス会の危機
16世紀後半は、3つの理由から日本の歴史の中で最も興味深い時代である。
第一に、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という強力な主導者たちが登場したからである。
第二に、この時代は、古代の社会制度が初めて完全に統合され、中央軍事政権の下で、すべての藩主が決定的に統合されたという点で、非常に重要である。
そして最後に、この時代は、日本に初めてキリスト教を導入しようとした歴史があったことから、特別な関心を持たれている。
また、イエズス会の栄枯盛衰の物語もこの時代に属していた。
これは社会学的意義に示唆に富むものであると言える。
12世紀の天皇家の分裂を除けば、日本の国体を脅かした最大の危機は、ポルトガルのイエズス会によるキリスト教の導入であった。
日本は冷酷な手段によって、計り知れない苦しみと、無数の命を犠牲にして国を守るしかなかった。
信長が中央集権を目指す前の大混乱の時代に、ザビエルとその信奉者たちによって、この耳慣れない不穏な要素が導入されたのである。
ザビエルは1549年、鹿児島に上陸し、1581年までにイエズス会は、日本に200以上の教会を持つようになった。
1585年には日本からの宗教使節がローマに到着し、その日までに11人の大名(イエズス会では「王様」と呼ぶ)が改宗した。
その中には有力な大名もいた。
信長が権力を握ったとき、彼は多くの点でイエズス会を支持したが、それはイエズス会の信条に共感したからではない。
信長がキリスト教徒になることを夢見ていなかったからである。彼は、彼らの影響力が仏教に対抗するために役立つと考えた。
信長は目的を追求するためには手段を選ばなかった。それはイエズス会のやり方に近いと言える。
しかし信長は、キリスト教の伝来を許してきたこれまでの方針を後悔し始めた。
そこで信長は、家臣を集めてこう言った。
「宣教師たちがお金を出して人々を説得する行為は面白くない。」
「南蛮寺を取り壊してしまうという手もある。」
南蛮寺:ポルトガルの教会で「南蛮人の寺」と呼ばれていた。
これに対し、家臣の前田玄以はこう答えた。
「南蛮寺を取り壊すにはもう遅すぎます。」
「今、この宗教の力を止めようとするのは、大海の流れを止めようとするようなものでしょう。」
「貴族は大なり小なりこの宗教を信奉しています。」
「今この宗教を撲滅しようとすれば、家臣の間に乱れが生じる恐れがあります。」
「ですから、南蛮寺を滅ぼすことは、断念すべきだと私は思うのです。」
その結果、信長はキリスト教に対する以前の行動を非常に後悔し、どうすればこの宗教を根絶できるかを考えるようになった。
しかし1586年に信長が暗殺されたことで、寛容な時代が長く続いたと思われる。
信長の後継者である秀吉は、外国人宣教師の影響を危険視し、当面は軍事力を集中させて天下に平和をもたらすという大きな問題に取り組んでいた。
しかし、南蛮渡来のイエズス会の猛烈な不寛容さは、すでに彼らに多くの敵を作っており、新しい教義の残酷さを復讐しようとしていた。
家康の歴史の中に、改宗した大名が何千もの仏教寺院を焼き、無数の美術品を破壊し、仏教僧を虐殺したことが書かれている。
ここでは、イエズス会の作家たちがこれらの十字軍を聖なる熱意の証拠として賞賛している。
異国の信仰は、最初は説得力があるだけだったが、その後、信長の後押しで力を増し、強圧的で凶暴なものとなった。
信長の死から約1年後には、それに対する反発が起こった。
1587年、秀吉は京都、大阪、堺の宣教教会を破壊し、イエズス会を都から追放した。
翌年、秀吉は彼らに平戸の港に集合して出国の準備をするように命じた。
しかし宣教師達は、それに応じないほどの信念を持っていた。
彼らは日本を離れることなく、各地のキリシタン大名の保護を受けながら日本中に散らばっていった。
その宣教師たちは1591年までは沈黙を保ち、公に説教をする事を控えていた。
しかしこの年、あるスペイン人のフランシスコ会が登場して事態は変わった。
このフランシスコ会はフィリピンからやってきて、キリスト教を説かないことを条件に滞在許可を得た。
しかし彼らは誓約を破り、慎重さを放棄し、秀吉の怒りを買ってしまった。
怒った秀吉は、見せしめをすることを思いつく。
1597年、秀吉の命により、6人のフランシスコ会、3人のイエズス会、その他数人のキリスト教徒は長崎に連れて行かれ、そこで十字架にかけられた。
しかし、1598年に秀吉が亡くなったことで、イエズス会にとって幸運が訪れる。
秀吉の後継者である、冷徹で用心深い家康は、イエズス会に希望を与え、さらには京都や大阪などで再興することを許したのである。
当時、家康は関ヶ原の戦いという大勝負に備えていた。
家康は、キリシタンが分裂していることを知っていた。
大名達の中には同意する者もいれば反対する者いた。
しかし、権力を確立した1606年、家康は初めてキリスト教に反対する姿勢を示し、布教活動を禁止し、外国の宗教を取り入れた者はそれを捨てなければならないとする勅令を出した。
しかし勅令が出たにも関わらず、イエズス会だけでなく、ドミニコ会やフランシスコ会による宣教活動が行われた。
当時の日本のキリスト教徒の数は、多く見積もって200万人近くいたと言われている。
家康は1614年まで厳しい弾圧措置を講じなかったが、その後手のひらを返すような大迫害が始まった。
九州での迫害は、イエズス会が力を持っていた時代に、改宗した大名が仏教寺院を焼き、僧侶を虐殺したことによる不寛容さの当然の結果であったと思われる。
このような迫害は、豊後、大村、肥後など、イエズス会の扇動によって土着の宗教が最も激しく迫害された地域で最も容赦なく行われた。
1614年からは、日本の全64藩のうち、キリスト教が伝わっていないのは8藩のみとなり、異国の宗教への弾圧が政府の問題となった。
迫害は、キリスト教の痕跡がすべて消えるまで、組織的かつ継続的に行われた。
信長、秀吉、家康という三大武将達は共に、この外国の宣教活動に疑念を抱いていた。
しかし、家康だけは、このプロパガンダが引き起こした社会問題に対処する時間と能力を持っていたのである。
家康は、ローマのキリスト教が政治的に重大な危険をはらんでいると判断し、その撲滅は避けて通れない必要があると考えた。
そしてイエズス会の陰謀には、最も野心的な種類の政治的目的があると判断したのだった。
1603年には日本の全ての地域にイエズス会は普及したが、最終的な勅令が出されたのは、その11年後だった。
家康はこの勅令で、外国人宣教師たちが政府を掌握し、日本を手中に収めようと企んでいることを明確に宣言した。
「キリシタンは日本に来て、商船を送って商品を交換するだけでなく、悪法を流布して正しい教義を覆し、国政を変えて天下を取ることを切望している。」
「これは大災厄の芽であり、潰さなければならない。」
「日本は神々の国であり、仏の国である。」
「神々を敬い、仏を崇める。」
「バテレン*の一派は神々の道を信じず、真の法を冒涜し、正しき行いを犯し、善きものを傷つける。」
「彼らは神々と仏陀の真の敵である。」
「速やかに禁止しなければ国の安全が脅かされるだろう。」
「国務を司る者が悪事を止めなければ天罰が下るだろう。」
*「バテレン 」はポルトガル語の「パドレ 」が転訛したもので、今でも宗派を問わずローマ・カトリックの司祭を指す言葉である。」
「これらの宣教師は即座に一掃されなければならない。彼らが足を踏み入れることのできる土壌は日本には雀の涙ほども無い。」
「もしこの命令に従わないならば罰を受けることになる。」
「天と四つの海耳を傾け、従うのだ!」
バテレンには日本にとって2つの異なる罪があった。
一つ目は、宗教を装った政治的陰謀で、政府を手中に収めることを目的としたもの。
2つ目は、神道と仏教の両方の土着信仰に対する不寛容さである。
この勅令は1614年に出されたが、家康は1600年の時点でこれらの問題の一部を知る機会を得ていた。
イエズス会の悪意に満ちた思惑は、家康の鋭い観察を免れなかった。
家康は、イエズス会を「偽りの堕落した宗教」と呼んだ。
日本社会が築き上げてきた、あらゆる信念や伝統と本質的に対立するものだと考えていたのだ。
日本の国家は、神を頂点とする宗教団体の集合体である。
これらの共同体の慣習は、宗教的な法律としての効力を持ち、倫理は慣習に従うことと同一であった。
親孝行は社会秩序の基礎であり、忠誠心は親孝行に由来するものであった。
しかし、夫は親を捨てて妻につくべきだと説く西洋の信条では、親孝行は大した美徳ではないと考えられた。
親や領主、支配者への義務は、ローマの教えに反した行為をしない限り、義務として成立すると宣言していた。
最高の服従の義務は、京都の天皇ではなく、ローマの教皇にあるとした。
ポルトガルやスペインから来た宣教師たちは、神や仏を悪魔と呼んでいたのではないか。
ヨーロッパでは、この教義は乱れ、戦争、迫害、残虐行為の絶え間ない原因となっていた。
日本では、この信条は大きな騒動を煽り、政治的な陰謀を企て、ほとんど計り知れない災いをもたらした。
将来、政治的な問題が発生した場合には、子供が親に、妻が夫に、下臣が将軍に従わないことを正当化することになる。
今や政府の最重要任務は、社会秩序を強制し、平和と安全の条件を維持することであり、それができなければ、国家は千年に及ぶ争いの疲れから立ち直ることはできない。
しかし、この外国の宗教が秩序の基盤を攻撃し、破壊することが許されている限り、平和は決してあり得ない。
16~17世紀の日本は、先祖代々の宗教が生き生きと残っていた。
しかし、イエズス会の無用な祖先崇拝への攻撃は、必然的に社会の体質への攻撃であり、日本社会は倫理的基盤への攻撃に本能的に抵抗している。
外来宗教の勝利は、社会の完全な崩壊と、帝国の外国支配への服従を伴うことが認識されていた。
少なくとも、芸術家も社会学者も、宣教の失敗を悔やむことはできない。
キリスト教が消滅したことで、日本の社会は進化し、素晴らしい日本美術の世界と、さらに素晴らしい伝統、信仰、習慣の世界を維持することができたのである。
勝利したローマ・カトリックは、これらをすべて消し去ってしまっただろう。
「イエズス会の危機」をより深く理解するには、マーティン・スコセッシ監督のアカデミー受賞作品、素晴らしい大作映画「沈黙」をお勧めします。
日本 その解釈の試み
1904初版
パトリック・ラフカディオ・ハーン