天皇が菊の玉座を退位
令和時代と日本の未来
今日お話することは、そうです、日本国民の最大の関心ごと、本日まさに、平成から令和になりました。今日本は重要な節目に来ていると思います。平成天皇の退位、そして新天皇誕生という記念すべき今日、私がここ日本に降り立ってから過ごした、昭和と平成時代の皇室について、興味深いお話をさせていただきます。
内容
1987年1月11日に日本に上陸したときの私の驚きを想像してください。実際には、昭和天皇の治世の62年目の1月11日に到着しただけのことです。千葉県に位置しているにもかかわらず、一般的に新東京空港として知られている成田国際空港にワクワクと期待に満ちた気持ちで降り立ちました。そして、ここ(Land of Rising Son)で戸惑うような矛盾と、とても独特で驚くほど混乱で難解な旅が始まります。
その日から早くも2年近く経ったある日 、突然私は日本のラジオとテレビの両方、そして国民の雰囲気を察して、非常に厳粛な気分に直面しました。占領下のArm Forces Network、横須賀空軍基地のアメリカの軍用ラジオ局でも、日本にとってのこの重大な出来事を踏まえて厳粛な音楽を流していました。
天皇が亡くなったのです。
亡くなった天皇の実名は裕仁(ヒロヒト)でしたが、彼の死後その時代の名前が与えられ、彼は今では永遠に「昭和天皇」として知られています。
私はあまり考えていませんでした。天皇、、、、。日本の皇室は非常に孤立していますが、それはやや神秘的でもあり、実際に、皇室の人々は市民にとって謎のままです。しかし、明仁(アキヒト)天皇が1990年11月12日に菊の王座に座ったときには、今までよりオープンで受け入れやすい姿勢がありました。
君主が日本国民にとってどれほど重要であるかについて考えるには、日本の天皇の長く豊かな歴史を知らなければなりません。
約2600年前、紀元前660年から585年頃、最初の天皇である神武天皇は、太陽の女神アマテラスの直系の子孫であり、この時代を基本的に日本の始まりとして正式に宣言しました。そして、これを考慮すると、日本人は皇室に誇りを持ち、尊敬し、そして彼らを愛してるということになります。これは間違いありません。
昭和天皇の死は非常に意味を持ち、昭和天皇の重要な歴史的な出来事と彼が日本を統治していた時代は日本人にとって深い反省の時となりました。今、私たちが令和の新時代に到達したように、徳仁(ナルヒト)天皇が玉座に座る天皇に即位したこと、そして皇后雅子様と共に、父親の遺産を継承し続けていることに対する、日本人の新たな希望もあります。平和で調和のとれた日本の国民との共存、、、、。
昭和皇帝の亡くなった日本の暦は、平成として知られていた新しい時代の名に変わりました。これは、新しい明仁天皇が日本の国のための非常に並外れた、そして極めて挑戦的な日本を統治した時代の名称です。
私は自分自身の目で見てきましたが、日本人は彼ら皇族に対する揺るぎない献身と、忠誠心を持つ非常に勤勉な国民です。
例えば今、私は日本人と密接な関係がありますが、昭和と平成の間に日本政府の精力的な努力の後に、彼らが世界で二番目に大きな経済大国になったことは、それほどおかしなことではないと考えます。第二次世界大戦で焼け落ちた灰の中から日本を再建するために、政府と企業は献身的な日本国民と共に努力してきました。これには、日本の2つの主要都市の原子力爆弾による消滅、および人類の歴史上最も破壊的な、爆撃として見なされている、東京空襲が含まれます。東京の中心部の41 km(16平方マイル)が破壊され、推定10万人の市民が死亡し、100万人以上が家を失いました。
昭和天皇陛下の即位中に、日本では他にもいくつかの重要な出来事がありました。
1995年神戸の多くが破壊された阪神淡路大震災、その後の2011年3月の東日本大地震では壊滅的な津波が起き、日本の北東部の海岸付近で数万人が亡くなりました。
明仁上皇は外に出向き、市民を慰め、手を差し伸べました。これはこの時まで、日本の歴史の中で成し遂げられなかったことで、他のどの天皇とも異なります。これは皇室政権の議定書から、大きく外れたものであり、私たちが大切に思っていた上皇は、息子の徳仁天皇が日本の国民と生活を、心から思い続けるよう残した、非常に大切な財産です。
明仁天皇が一般人と結婚した、史上初の天皇であるということも、言うまでもありません。
彼は1934年10月20日に生まれ、東京で育った一般人の美智子様と結婚しました。裕福な実業家の娘として生まれ、そして英語を学び、ピアノを弾くことなどの非常に豊かな教育を受けました。実際に彼女のピアニストの腕前は、大変素晴らしかったそうです。 1957年8月、正田さんは、東京近郊の長野県軽井沢のテニスコートで皇太子に出会ったと言われており、婚約式は1959年1月14日に行われ、結婚式は1959年4月10日に伝統的な神前式で行われました。
ここで注目すべきところは、一般人が日本の皇室にお嫁入りしたのは、これが初めてのことで、2600年以上の伝統を破りました。
これは、日本皇室にあった鉄の掟をいくつか破る、最初の出来事だったと私は思います。
そして、皇太子と結婚する最初の一般人として、これからいくつかの問題が起きるということは、全員が予想することができたかもしれません。
この非常に優雅で思いやりのある女性は、現在では、人間味溢れる上皇と共に、平成皇后として官僚的で、伝統的な皇室を、少しだけ一般人にも、親しみやすくするという、日本国民への贈り物のようでした。
この、島国日本の皇室に生まれ、第127代天皇になるという運命が、どのようなものであるか想像してみてください。これからお話するのは、新しい令和時代の天皇 徳仁天皇の運命です。いくつかの記事によると、彼が子供だったとき、多くの人々がいつも自分を見て、手をふっているのが、とても不思議に思ったと言っています。
5歳のときに何を考えていましたか?
隔離された皇室の世界で、どの様に子育てをするのだろうと思いますよね。しかし一般家庭の子供が育つのと同じように、彼は音楽、登山を楽しみ、東京出身の人ならよくある、野球チーム読売巨人軍のファンでした。
徳仁天皇は1982年3月に学習院大学を卒業し、オックスフォード大学のミドルトン大学の集中英語コースに入学し、1986年まで学びました。
徳仁天皇は非常に思いやりのある、暖かい心を持った人のようです。彼は世界を旅して自分の視野を広げるのが大好きです。実際彼は、1997年に皇太子として、ブータンを公式訪問し、コルカタでの乗り継ぎの間に、バックパッカーのグループが加わりました。そこで彼は、自由に人々と雑談をしたりしています。そしておそらく、彼の人生のほんの少しの瞬間ではありましたが、彼は自分を一般人のように感じることができたのではないでしょうか。
彼の最も重要な訪問のなかの1つに、皇太子として行った、ベトナムへの1週間の旅行があります。それは、日本とベトナムの外交関係の、35周年を祝うためのものでした。
将来を見据えると、これは世界でも、最も重要な2カ国間の関係の1つです。
ベトナム人は日本人と非常によく似た国民で、どちらも歴史が古く、誇り高く、そして豊かな文化を持っています。
昨年12月日本政府は、2019年4月30日に、彼の父親の天皇退位が宣言されると発表しました。そして令和時代は、2019年5月1日に始まります。
授権式の暫定日は今年の10月22日です。
なぜ今、日本にとって非常に重要な節目にきているかと言うと、主な理由が二つあります。一つ目は、徳仁天皇は戦後生まれの天皇と言うことです。そして二番目には、皇后雅子様の歴史についてなんです。
元外交官で、今は皇后の小和田雅子さんは1963年12月9日に東京で生まれました。彼女は外交官で、元国際司法裁判所長である、父親の足跡をたどっていました。
日本の人々にとって、非常に珍しい雅子皇后と彼女の家族は、彼女がちょうど2歳のときに、父親がモスクワの大使館勤務となり、彼女はロシア語で幼稚園に通いました。
5歳の時、小和田家はニューヨークに引っ越し、そこの公立幼稚園には、英語で通いました。このような幼児期から察するに、彼女は多様な環境で生きる事ができる様に、人格形成されたのではないかと、想像することができます。雅子皇后が8歳の時に、家族が日本に戻り、そこで彼女は、母親と母方の祖母も卒業した、双葉学園に入学し、才能あふれる個性を発揮して、ピアノやテニスを学び、手工芸クラブに参加し、動物に興味を持たれるようになりました。彼女はその時、獣医師として生きることを決めました。
先に述べたのことからわかるように、雅子皇后はロシア語と英語を含む、異なった言語環境で幼年期の何年かを過ごしました、そして彼女が4番目と5番目の言語を習得したのは、ドイツ語とフランス語です。このとても精力的な女性がソフトボールチームの三塁手として活躍し、友人と共に3年後に、地区チャンピオンにもなったのでした。さて、本当に素晴らしい雅子皇后はその後どうなったのでしょうか?
彼女の父親は、在米日本大使館公使に就任したため、1979年に再びアメリカに戻り、ボストンに定住しました。彼女はそこで高校を卒業し、その間に彼女は名誉会の会長になり、学校の数学チーム、そしてフランス語クラブにも所属しました、彼女はまたソフトボールチームに加わり、ドイツ語の詩で賞を獲得し、挙げ句の果てにはMASHと呼ばれる舞台演劇にも参加しました。このような本当に素晴らしい皇后様はどうでしょうか。
念のために言っておきますが、彼女は1985年にハーバード大学で、経済学の学士号を取得しています。
現在、日本政府のテストは、大変難しいといわれ、悪名高い事で有名ですが、外交官入学試験もその一つです。 800人の応募者のうち、わずか28人しか合格しませんでしたが、その時の雅子皇后は、そのわずかな合格者の中の1人でした。
雅子皇后がすでに外交分野で人並外れた軌跡を描いていたので、皇太子と結婚するということを考えるのは、とても難しいことでした。そして私の個人的な意見ですが、彼女は重要な大使になることが、運命ではないかと思われるくらいの、高いレベルの外交官僚だったのです。ですから彼女は、皇太子のプロポーズを、一度だけでなく二度拒否しましたが、皇太子の無条件の愛と、高いリスペクトのもと、三度目のプロポーズの後、結婚することとなりました。彼らは1993年6月9日に、伝統的な神道の儀式で結婚しました。
今、彼女の夫である徳仁天皇は、菊の玉座に座ることとなりました。皇太子妃、そして今や皇后として、私たちの皇后雅子様が特別な外交官としての、任務を再開することを強く望んでいます。そして皇后雅子様は、彼女の義務を再開し、世界に尊厳、名誉、犠牲の真実、そして日本の真の本質と、それが日本であるということを見せてくれるでしょう。
日本は長い歴史の中で今、非常に重要な時期にあります。この急速に変化する世界で、日本人は、常にその時代を超えた伝統を尊重し続けます。
近代化し続ける日本、近隣諸国と調和がとれるよう協力をし、私たちの子供たちと、更に次の世代のために、より良い未来を築くために、日本はより一層の役割を果たしていくでしょう。
天皇陛下と皇后の福島の訪問
https://www.youtube.com/watch?v=dSjVnnrnVJU
天皇歴史
https://ja.wikipedia.org/wiki/天皇
天皇の一覧
https://ja.wikipedia.org/wiki/天皇の一覧
上皇明仁様
https://ja.wikipedia.org/wiki/明仁
上皇后美智子様
https://ja.wikipedia.org/wiki/皇后美智子
徳仁天皇様
https://ja.wikipedia.org/wiki/皇太子徳仁親王