ディスイズ・ジャパン
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日本古来の仕組みの隅々において、障害に直面したときに繰り返すマントラがこの言葉です。
日本には、一期一会を大切に、音色や色調に関係なく、非日常のひとときとして受け止めるという思想があります。
そして、慣れないことや違和感に苛立ちを覚え、「変わらなければ」と思う時、この言葉が役に立つのです。
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官僚主義や、お役所仕事に遭遇してわかったことですが、ストレスは選択なのだと思います。
顔の見えない官僚に無意味な書類を提出させられ、自分自身のオリジナルな考えをまだ持っていない頭の悪い役人に承認させるために、人は深々と頭を下げながら微笑み、唯一の説明を理解するのです。
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物事が進め方も不思議です。なぜ、次の段階に進む前に、何人もの社員が、つまらない書類に、いちいち印を押す必要があるのでしょうか。
しかしそれがなぜかは誰にも説明できません。ただ繰り返すのです。
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「日本を変えてみせる」という意気込みで来日する英米系西洋人を、長年に渡り何人も見てきました。
そのような素朴な企み長くは続かないし、日本人と日本古来の文化に対する、そのような乏しい態度は日本の一般市民の間では、すぐに非常に薄っぺらなものとなってしまうのです。
もちろん、PTAの会合で自分の意見を主張したり、ゴミの出し方を改善したりするのはいいことでしょう。
そのようなことは、日本の将来のために必要で前向きな変化を促す、貴重な地域貢献の例であることは間違いありません。
そして、常に自分自身の影響力の及ぶ範囲内で進歩しようと努め、自分自身のコントロールの及ぶ範囲外はすべて受け入れなければならないのです。
例えば、平等は崇高な概念ですが、日本人の心の中には存在しません。なぜなら、私たちは「タテ社会」の中で生きており、(ほとんど)誰もが自分の役割と居場所を知っているからです。
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さらに、日本人の心には、男女の平等という概念は、ほぼ無いと言えるでしょう。
日本社会にはそれぞれの役割があり、それは日本人が決して改めて考えようとはしない事実です。
なぜ、日本人はそう考えるのでしょうか。
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私たちが調和のとれた社会で暮らしているのは、日本人が生まれたときから、どこから来たかによって、仮面、顔、役割という現実の世界で生きていくように定式化されているからです。
日本人でさえ、日本社会を未来に導く古代のプロトコルのいくつかを不思議に思っているのは、その事実以外に何ら理由がないからなのです。
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