今日の風味は
アナログからデジタルへの変換を、リアルタイムで観察できる世代に生まれたのは、大変興味深いことです。
太陽に続く私の旅は、手つかずの自然が残るシュスワップ湖畔にある、人口わずか5000人のサーモン・アームという小さな田舎町から始まりました。
当時は、テレビとそれに付随するサブリミナル番組など、黎明期のテクノロジーがありました。
もともと1920年代後半に開発されたテレビは、1950年代には一般家庭、企業、施設に普及し、世論を彩る主要なメディアとなりました。
私の父が所有していた最初のテレビは、12インチの白黒1チャンネルでした。
1971年、2つのチャンネルを見ることができた、初代カラーテレビを父が持ち帰ったときの興奮を想像して下さい。
当時のテレビ番組は6時に始まり、23時に終わりました。
その後、衛星放送がオンライン化され、アメリカ人が大量に派手なB級映画やMTVのキッチュ・ポップ・ロックなど、大量の番組を作り、世界を侵略しました。1987年に日本に来て最初のテレビは、確かに1つ以上のチャンネルを持っていましたが、日本語がわからない限り、ほとんどすべての番組は理解することはでませんでした。
ある音楽番組との偶然の出会いは、音楽が持つ普遍的なコミュニケーションの力について、私に深い印象を残しました。
日本の年代記の中で最も高く評価されている歌のひとつに、美空ひばりの「川の流れのように」があります。
この演歌を聴いていると、美空ひばりが歌う川の流れのように、心の奥底から涙があふれてくるのです。
時は流れ、1990年代初頭のインターネットの夜明けは、孤立した2つの特殊な状況からの解放をもたらしました。
国際通信
国際電信電話(KDD)、1988年頃のカナダへの通話料は3分1,200円でした。
ここで、テクノロジーの素晴らしさと懐への優しさが明らかになりました。
コールバック・システムは、マベルの規制緩和と、自由奔放な縁故資本主義への乱暴な進撃の後に生まれました。
アメリカからの発信音によって、アメリカから発信する代理通話が、はるかに安価なアメリカの通信標準料金で可能になったのです。
契約後、専用の返信番号が割り当てられ、KDDの国際電話システムから直接ダイヤル発信でアメリカの通信システムにアクセスできるようになりました。
着信音が1回鳴り、受話器を取ると、その電話はアメリカからの発信音で返信され、世界のどこにいても、100%政府所有の国際通信ネットワークよりもはるかに安い料金で、目的の相手と連絡や通信ができました。
日本の田舎では、英語の本を手に入れることはできませんでした。東京の書店までは3時間もかかるため、アクセスにも問題がありました。
しかしその後、世界最大のオンライン書店が登場し、私の独学の旅が本格化することになりました。
アナログからデジタルへの変貌と、それによってもたらされる今日の世界を、息をのみ、そして実際に吸い込まれてしまう様な感覚を目の当たりにしています。
白黒テレビの、たった2つのチャンネルの世界から遠く離れ、小さな田舎町では現在、利用可能な番組の選択肢は無限大という、抽象的な数の概念で数えることができます。
過去30年間の著しい社会的・技術的進歩は、人類の歴史上、想像もできなかったほどの選択肢を、私たちにもたらしました。
無限の選択肢を手にすることができるようになった今、失われつつある貴重な時間という概念や、昼と夜の区別の重要性、そして徐々に失われつつあるすべての生命の儚さを心に留めておく必要があるでしょう。