先生
日本語で「先生」を表す表意文字は以下の通りです。
この文字には、英語の “teacher “とは全く異なる概念が含まれています。
先生という言葉は単なる勉強を教える教師のみならず、弟子に知識と知恵を与え、この世で独自の道を切り開くための生涯の師という意味があるのです。
西洋的な「先生」という概念を取り払い、「先生」という概念を内面化することができるのです。
正直なところ、日本に来て英語教師としての道を歩み始めたとき、先生と呼ばれると、正式に教師としての教育を受けたわけでもないので、少し違和感を覚えたものでした。
しかし、そのうちに、先生という尊称にふさわしい仕事をするために必要な努力と覚悟の大きさを理解するようになりました。
日本では、教師以外に次のような職業の人達が、先生と呼ばれることがあります。
医師
弁護士
税理士
政治家
武道家
しかし、「眉に唾をつける」という言葉があるように、油断は禁物です。
日本において、自分のことを先生と呼ぶことは可能です。
しかし、前述したように、無資格の自称先生には注意が必要でしょう。
自称先生の詐欺師やネズミ講のような人たちが、貴重なコミュニティのジャングルに入り込み、社会から生命を奪っているのが見受けられます。
例えば、自称マーケティングの「第一人者」は、偽りの希望と夢で世間を欺き、騙されやすい人や世間知らずの人からお金を巻き上げています。
また「先生」は、状況や口調、日本社会の不文律の中で働くさまざまなプロトコルによって、非常に見下した、軽蔑的な態度で使われることもあることを覚えておいてください。
先生と名乗る人の信頼性は、意識的に見極める必要があります。
先生という肩書きがあるからといって、その人が先生であることの本質を魔法のように体現しているとは限りません。
一昔前の産業教育コンプレックスによる「教育」を受けている時に出会った他の教師は、ほとんどが平凡で目的意識も希望もビジョンもない人たちでした。
実際、それらの教師のほとんどは、決められた「仕事」をする単なる公務員であり、生徒達が実社会で生きていくための手助けする能力を持っている可能性は、極めて低いでしょう。
高等教育機関では、ほとんどの教授が特定の分野に専念しており、その分野の発展に人生を捧げています。
教授陣の動機と意図を精査し、慎重に検討する必要があるでしょう。
知識と指導を渇望している、輝いている学生にとって最悪の事態は、問題の真相と現実からかけ離れた信念体系に教え込まれることです。
どんな先生でも、知的好奇心、市民的な議論、客観的な調査を歓迎するでしょう。
さらに、自分の弟子が自分を超えて、自分の力で先生になることを目的として、弟子が技や訓練に挑戦することを歓迎するのが、本当の先生と言えるでしょう。
即ち、鬼の女房鬼神がなる。
その時初めて、本物の先生は、進化する文明の新しいパラダイムに、世界を導く運命にある次の世代を啓発した後、自分の運命が成就したと深い自己満足を感じることができるのです。