変化は不変
変化は不変
日本人は、世の中は常に流動的であり、流動的な状況下では、風と共に流れるような柔軟性が究極の人生哲学であると受け止めています。
一般にこの考え方は、日本人の倫理観や道徳観の根幹をなすものです。
一方、西洋人は、世界を固定的にとらえ、人間関係や人間の営みを不変のものとしてとらえる傾向があります。
このような西洋人と日本人の考え方の違いは、西洋人が緻密で鉄壁の契約や協定を好むことに顕著に表れています。
西洋人は、もし契約書がなければ世界は崩壊してしまうという見方をしています。
実際、近年に至るまで、日本人には細かい合意や契約は一般的ではありませんでした。
政治的な目的、ビジネス的な目的によって同盟を結ぶのが自然の摂理であり、同盟は宇宙と同じように自由であり、どちらかが主導して日々調整することが可能であることを理解しています。
一般に、日本が結んだすべての協定は、「状況変化」の原則に基づいています。
世界情勢が急速に変化し、日々の状況が常に流動的である以上、契約の条件が絶対的なものであってはならず、またそうでなければならないということを、契約の関係者は理解しておく必要があることは明らかです。
契約義務の絶対性こそが、前代未聞の文明の衝突を生み、東洋と西洋の対比をこれ以上ないほど鮮明にしているのです。
契約書という西洋の習慣が日本に導入された時、日本人はこれを西洋人が非倫理的で不道徳であり、約束を守る人を信用できない証拠だと考えました。
日本人はまた、細かい契約書に従わなければならないという考えを非合理的だと考えており、それは当然のことでしょう。
日本のビジネスには「事なかれ主義」が根強く残っており、契約書は一般的なガイドラインであり、状況に応じて改訂されるものだと考えられています。
特にアメリカ人は、日本人が結んだ契約は「アジャスタブル(調整可能)」であると考える傾向があります。
確かに、日本人は契約や口約束を一方的に「調整」し、時にはそれを完全に削除することもありますが、そのことに不適切さや不合理さを感じることは全くありません。
本当に、契約書の条項を調整しないことが、どちらかの当事者にとって不利益になる場合、それは単に不合理なことなのです。
日本人は、契約に対して何ら矛盾を感じず、自分たちを世界で最も正直で、誠実で、信頼できる、名誉ある人々の一人だと考えています。
しかし、日本人の目には、契約を自分の都合の良いように勝手に解釈することは、人間的な感情が優先される個人的な事柄に映るのです。
そのような場合、たとえ相手に迷惑がかかっても、お金がかかっても、相手の行為を理解し、受け入れることが求められます。
このような場合、契約を破棄した側は、将来、相手側に同じような甘えを与える義務があると理解され、最終的にはすべてがバランスされるのです。
この柔軟性が、長期的な視野に立った互恵的な関係、いわゆる「ロングゲーム」を強固にしているのです。
日本人と日本人の道を理解する人たちは、人生のはかなさを痛感しています。
桜の花がはらはらと散っていく様を、全ての生命のはかなさと表現することもあります。
このように、人間や宇宙の気まぐれは、決して岩に刻むことはできません。
契約締結に際しての当事者の意図に関わらず、桜の花の儚い命のように、状況は常に流動的であり、変化し、それは保証されるのです。