恥を知る
恥を知る
日本人は原罪というキリスト教の概念に、道徳的に縛られたことがないため、キリスト教が日本に定着することがありませんでした。
イエズス会とキリスト教の教育プロトコルは、1620年までに日本から追放されました。そしてその後、キリスト教は今日まで「日出ずる国」に馴染むことはありませんでした。
日本の賢明な統治者は、外国の神を崇拝し、ローマに献金を納めるという考えを拒否しました。キリスト教の拡張主義の連中が、日本人を搾取する意図が、明らかだったからでしょう。
日本社会の道徳的基盤は「恥」にあります。
日本人は皆、神や女神の直系の子孫であり、その神である先祖の機嫌を損ねるような行動は恥ずべきことであり、慎むべきであるという神道の概念が由来です。
神道の概念の一つに、神や女神は、地球上を歩く人間と同じように過ちを犯す可能性があり、人間のあらゆる状態を体現しているというものがあります。
人間と同じように、模範的な神様もいれば、反面教師とも言える神様もいます。
日本人にとって、罪とは社会的な恥であり、ユダヤ教・キリスト教の精神的な罪の概念とは無縁なのです。ハレルーヤ。
日本人は恥や、また恥を感じることを避けながら生きていかなければならないのです。
恥をかかないために、日本社会で慣習的に受け入れられている行動を取らざるを得ませんでした。
恥がなければ、つまり日本社会の基準で名誉を保つことができれば、罪はなくなります。
日本人の社会では、他人の言動によって面目をつぶされたり、名誉を傷つけられたりすることを「恥」と言います。
日本人にとって、コミュニティの中で面目を保つことは非常に重要であり、グループ内で何らかの社会不安が起きないように、お互いに良い関係でいることが必須です。
日本人は時代を先取りしているのかもしれません。何世紀もの間、全能の「恥」のプロトコルを使って、自分たちの文明を比較的調和のとれた環境に形成し、成功させてきたのですから。
さらに言えば、「恥」は社会全体をコントロールする強力な道具であり、今日でも日本のあらゆる社会環境で観察することがでます。
恥のプロトコルを知って、恥ずべきことをしないようにしましょう。地域社会の人達から怒られ、村八分にされないように。