神聖な歌姫、マリアン・アンダーソン
神聖な歌姫、マリアン・アンダーソン
1953年、日本の皇后陛下のために歌ったマリアン・アンダーソン。
この知られざる天才的な人権派ヒロインは、人種差別の著しいアメリカにおいて、その感覚的な歌声と品格で、世界的な名声と評価を得た最初の有色人種の一人として、アメリカ社会に多大な影響を与えました。これはもっと評価されるべきだと私は思います。
アンダーソン氏は1955年1月7日に、アフリカ系アメリカ人として初めてニューヨークのメトロポリタン・オペラで歌いました。しかしそれは日本に来て、永子皇后(香淳)のために演奏した後のことです。
1953年当時、アンダーソン氏は人種差別のあるアメリカでは、宿泊施設を探すのに非常に苦労していたのですが、日本では皇族のように扱われ、帝国ホテルのスイートルームに宿泊しました。
彼女の旅のスポンサーである日本放送協会(NHK)は、彼女を日本国民の名誉ある客人として大切に扱いました。
日本のおもてなしを経験したことのある人なら誰でも、ゲストが日本と日本の人々に対して好意的な印象を持ってもらえるように、ホストが細心の注意を払っていることを知っているでしょう。
ちなみに、自分の父親も1968年に日産自動車の招きで、この素晴らしいおもてなしを体験しています。(『父の帽子は日本に帰ってきた』)
アンダーソン氏は、「東京を出発したとき、私たちは多い時で8人で旅をしました。」と話しています。
「通常は通訳として若い女性が1人、男性が4人が私の世話係として付いていました。また一人の青年は、銀行員兼出納係として派遣され、ホテルやレストラン、店でお金を運んだり、支払いをしたりする係でした。」
また、アンダーソン氏は、周りの日本人スタッフが「エネルギッシュなプランナー」であり、「鉄道の時刻表のように綿密なスケジュールをこなしていた」とも言っています。
結局、彼女の謙虚さと、歌の魂を大切にする姿勢が世界的に評価され、1953年5月23日に当時の皇后永子様がアンダーソンを皇居に招待したのでした。
神聖な歌姫、マリアン・アンダーソンは、日本の聴衆について次のように述べています。
「日本人の聴き方は尋常ではない。その集中力は強烈で、その静けさは気が遠くなるほどであった。誰も動こうとせず、最初は深い静寂と不動を意識した。それらは決して動揺させるものではありませんでしたが、同じような強さが私にも求められていると感じさせられました。」
真のヒロインやヒーローは偶発的に生まれるものではありません
マリアン・アンダーソンのような人間は、内なる光に導かれた先見の明のある人物達であり、その定められた運命は、人間の魂が意気消沈して悩んでいるところに真実の光を当てることなのです。
日本のスポンサーは、定番曲に加えて、痛々しいほどパワフルな 「Deep River」 をリクエストしていました。
19世紀に無名のアフリカ系アメリカ人によって書かれたこのスピリチュアル曲は、アンダーソン氏の最高の解釈のひとつであり、まだ戦後の復興途中の日本の心の琴線に触れたことは間違いありません。
彼女の歌声は、この曲の歴史に込められた痛みや憧れを表現しており、日本人の心に深く響いたことでしょう。
アンダーソン氏は次のように述べています。
「どんなに大国であっても、弱い人を押さえつけている限りは、本当に強い国にはなれません。改善されない限り、その国は繁栄しないでしょう。」
この言葉は、今まで以上に真実味を帯びてきました。
人種差別主義者、偏屈者、自民族優越主義、そしてどんなに惨めに鞭打たれたとしても、この深くて深い知恵の並外れた言葉は、すべての人種主義者の心に永遠に響くに違いありません。