レオニー・ギルモア
レオニー・ギルモア
世の中を隅々まで探求すると、溌剌とした歴史上の人物を発見することになり、生来の好奇心を常に満足させてくれます。
驚くような女性たちが、信じられないような物語とともにあちらこちらに現れ続けているのです。
この明治時代の興味深い物語の主役は、1873年6月17日に地球の大気圏に突入したニューヨーク・マンハッタン出身の教育者で、編集者、ジャーナリストでもあったレオニー・ギルモアという女性です。
彼女は若い頃から学業優秀で、ブリンマー女子大学の厳しい卒業条件をクリアした、数少ない学生の一人であり、その努力により4年制大学の第一回奨学金を授与されました。
レオニーは、アメリカへの最初の日本人留学生の一人で、生粋の日本人の津田梅子と出会いました。そして日本との生涯のつながりが永久的に動き出したのでした。
1901年、ニューヨークに到着したばかりの、当時25歳の日本人作家、ヨネ・ノグチは、ある求人広告を出しました。レオニーは、その求人を見て応募し、それが二人の出会いでした。
ヨネ・ノグチはカリフォルニアに7年間滞在し、2冊の英詩集を出版していましたが、彼の英語力では、より高いレベルの作品を生み出すには至っていませんでした。
レオニーはヨネの編集者となり、『ある日本少女のアメリカ日記』というタイトルの、架空の日本少女の日記を出版させることに成功しました。
保守的な時代にあっても、祖国を超えて、男女が惹かれ合うのに理由はありません。レオニーはヨネの愛人となり、二人の間に、愛児である彫刻家イサム・ノグチを世に生み出すことになります。
しかし、二人の関係が薄れつつあったちょうどその時、レオニーは妊娠したことに気づいたのですが、ヨネに和解を迫るのではなく、ロサンゼルスの母親と合流することを選び、そこでイサムを出産しました。
女たらしの詩人ヨネ・ノグチは、すでにエセル・アームズと婚約していたのですが、その真相を確認したレオニーは自身とヨネとの婚約を解消しました。
その後、数ヶ月の間に、ヨネはレオニーを日本に呼び寄せました。しかしヨネはその後、1907年3月に、武田松子と関係を持ちました。
武田松子の存在を知り、とうとうレオニーは、1909年にヨネと別れたのです。
レオニーは第2子となる娘アイルズ・ギルモアを出産していましたが、父親の素性は、現在でも謎のままです。
レオニーは、自分と2人の子供を養うために横浜の学校で働き、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の子供たちの家庭教師をしました。
レオニーとアイルズは1920年まで日本で暮らしましたがその後、ニューヨークに移り住みました。
さて、イサムの芸術への才能を見出していたレオニーは、イサムに医学部への進学を思いとどまらせ、重要な芸術家としての、本来の運命に向かわせることに成功しました。
レオニーはまた、『ある日本少女のアメリカ日記』など、ヨネの作品とされるものの共著者でもありました。
実際、ヨネの最高傑作の多くは、レオニーの編集手腕によって成し遂げられたものであり、もし彼女の巧みな文才と編集手腕がなかったら、ヨネが成功を収めたかどうかは疑問でしょう。
2009年、映画監督の松井久子はレオニーの生涯を映画化しました。この映画は、明治時代の日本で力強く生きた女性の不屈の精神と逞しさを描いた、忘れがたい人間ドラマです。
今はさようなら、親愛なるレオニー、そして深く感動的な物語を本当にありがとう。