右脳・左脳 – パート6
右脳・左脳 – パート6
右脳・左脳 – パート6
アメリカ人の多くは、その行動や言動から見ても左脳優位の人々だという事が、最も分かりやすい例です。
日本人は、アメリカ人を地球上で最も予測不可能な人達と見なしているのですが、それは確実に定義された社会的形態、秩序、プロセスが存在しないためです。
日本人は伝統的に、厳格に規定され、統一された倫理に従って行動してきました。それは道徳や文明に通じ、これこそが日本道の本質なのです。

日本人の行動や態度は、アメリカ人の無骨で個人主義的な話し方や振る舞いとは、全く対照的なのは明らかですね。
当然のことながら、そのような話し方や行動は、日本人から見ると国籍や民族を問わず、野暮ったい、粗野なものとして見られます。
社会的調和の観点からすると、毎日、不快で不確実な人間との出会いが少なければ少ないほど、自分のコミュニティの社会的調和の指標が高くなるでしょう。

日本の倫理観は、日本人と日本の多くの神々との間で共有するものですが、日本人同士自体の調和を確保するために進化したものです。そのことを理解することが重要です。
このような日本の倫理観と調和のとれた社会の進化は、親、先輩、先生、そして権力者への敬意に基づいています。
おそらく、日本人の進化は、日本人の右脳的な特性によって、非常に特異で強力な影響を受けたのではないでしょうか。
日本人は本当に自然志向が強く、感情的な強迫観念を持っていて、秩序立った儀式的な方法で物事を行うことができます。
日本人の社会的進化の初期段階から、物事を行うための一定の方法が常に存在しており、時が経つにつれて、この尊敬の念を込めた礼儀のシステムは、もはや単なる礼儀の一形態とは見なされず、日本人のアイデンティティの不可欠な一部となってきています。

日本の伝統的な礼儀作法の特徴を知れば、太平洋の小さな島々に1億2,600万人という膨大な人口が存在するにもかかわらず、私たちの社会が(比較的)円滑に、全体的に、そして調和的に機能していることも、うかがい知ることができます。
おそらく、日本人の進化と右脳志向は、古代から日本人を特徴づけてきた特定のレベルのスタイルと礼儀作法に寄与していると考えられ、それは今日の日本人の本質に大きく貢献しています。

日本人は古来より、人間に共通する基本的な考え方、すなわち「神道」に基づいて形成されてきました。
多くの謎と同じように、ある言語は全てについて説明を求めますが、言語は「空気」の中にあるものを説明することができません。そして、言霊という精神が存在することが認識されています。
これまで「宗教」と呼ばれてきたものは、そうではありません。
厳密に言えば、神道は宗教ではなく、大和の群島に特有の道徳と礼儀のプロトコルの進化した成文化なのです。
日本道
万物
日本道とは、日本独自のスタイルである「包容力」によって、自分自身の道徳的·人間的な規範として生きることができる魅力的なものです。
自然の中の神々
祖先に宿る神々
万物の神々

日本人にとって「神」とは、社会の道徳を司る全知全能の存在ではなく、全てのホモサピエンスのように色々な神様がいて、人間と平等で自然な姿であると考えられています。
日本人の美意識は万物、特に人間関係の調和に対する深い感覚を体現しています。
このことは、特に左脳的な思考を持つ人にとっては、まだ不足している「何か」が、何なのかを深く考える必要があるのではないでしょうか。
確かに、日本人の感情的な右脳の性質は、太陽が昇り続ける限り、日本文化のあらゆる側面に浸透し続けるでしょう。
日本人の社会と言語の中には、「空気」の中に「直観」が存在していまして、この短い旅の中で、あらゆる人種のための太陽の下で、自分自身の人生のわびさびと、はかなさを見つけることができます。


私は密かに、それらの本を読んだ巨匠カーリンが、第二次世界大戦中の日本についてのハードコア・ヒストリー・シリーズのインスピレーションを得る事になると期待していました。









私は日本で最初に働いた会社を辞めた後、建設機械レンタル会社の輸出マネージャーを、短期間ですが務めたことがありました。
その仕事が私の生涯で最後の「雇われた仕事」でした。
私は日本語がまだ不自由だった上に、混乱して神経質になっていた、まだ若かった当時の妻(結婚生活は23年間)を前にして、深い孤独感に襲われました。
その時、「私はこの国で、本当に一人なんだな。」と思いました。
妻もまた自身の境遇を悲しんで「私は惨めだ。」と言いました。その発言で私の孤独感はさらに強まりました。
そんな私に、幸いな出来事が訪れます。それはたった一つだけ残っていた個人の英会話レッスンによってもたらされました。
その生徒の父親である大木さんに悩みを相談すると、とても親切に人生の方向を導いてくれました。
彼は地方の小さなの街の駅の近くにビルを持っていて、その魅力的な古いビルの2階が空いていました。
彼は「パンフレットを作ってあげましょう。そしてこの街に配って、自分の英会話塾を始めませんか?」と言いました。
彼は売り上げの何%かを要求しただけで、とても良心的でした。
半年ほどでスクールが軌道に乗った後も、大木氏には、月々の収入を大幅に下回るレンタル料で継続してもらい、非常に助かりました。
そして当時の日本では、レンタルビジネスが流行っていました。
英会話教室で使わせてもらっていたビルの2階は、特別な魅力がありました。私は自分の父がカナダで経営していたギャラリーから、限定アートを輸入し、そこにギャラリーを設けることにしました。
そのギャラリーから、数々の素晴らしい限定品を、歯科医院や医師会、ブティック、レストランなどの企業に貸し出しました。
しかしそれから数年で、この古い建物は老朽化のためにとり壊されることになったのです。
その時は私自身の会社の仕事や、輸出入ビジネスで忙しくなってきていたので、私にとっては丁度いいタイミングだったと思います。






















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