言葉は概念である:顔

言葉は概念である:顔

言葉は概念である:顔

言葉は概念である/顔

日本の社会の重要な概念や、日本人にとっての、その意味を理解するには、多くの日本文化がそうであるように、意図と意識が必要す。

日本人との交流を成功させるためには、「顔」について深く理解し、相手の「顔」を守ることの重要性を理解することが、最も重要だと言わざるを得ません。

日本人は、侮辱や中傷に対して非常に敏感である傾向があり、西洋人なら気にしないようなことにも拘る傾向があります。

自分の名前や評判、さらには名誉を守るという事を、多くの西洋人は比較的あまり気にしない傾向にありますが、日本人はとても気にする人が多いと感じます。

Reputation Is Everything この文化的な要素は、近代(1945年以降)まで、日本人は個人主義や、自分を積極的に表現することが、一般的に許されていなかったという事実に基づいているようです。

それぞれの日本人が生まれた時から、社会の中で織り込まれている、社会的慣習であることを忘れてはいけません。

歴史的に見ても、日本人が持っていた数少ない意味のあるものの一つが「顔」であり、これは自分の評判を意味します。

つまり、日本人にとって「顔」を潰されるということは、当事者双方にとって、非常に深刻な状況を生み出していると言えます。

そして、家族の尊厳と名誉を守ることが、日本社会では非常に重要であることがわかります。

昔は、もし自分の「顔」が潰された場合、それに対し、公式的に苦情を訴える事が許されていただけでなく、多くの場合、仕返しをすることもできました。

日本の歴史を見れば、数え切れないほどの悪巧みと復讐の記録があります。

Samurai Sleight and Revenge
確かに「顔」と羞恥心は日本文化と密接に絡み合っており、今日でも日本人の生活に重要な役割を果たしているのです。

日本人を相手にするときには、どんな目的であれ「顔」という文化の重要な礼儀作法を、しっかりと心に留めておかなければなりません。

どうしても相手の「顔」を汚してしまうような状況を避けられないときは、事前に謝罪したり、相手が恥ずかしい思いをしないような場所で、静かに話し合ったりすることで、その影響を和らげることができます。

世界の他の国でも、日本のように「顔」を大切にする社会を見習って、人に恥をかかせないようにすることができるのではないでしょうか。

私達は、他人の「顔」を潰しながら社会を破壊し、不調和を無視するのではなく、この地球上のどこに住んでいようと、礼儀正しく社会を築き上げ、人々の間で調和を図る事が可能なのです。Let the other person save face

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

言語は概念である:「義理」

言語は概念である:「義理」

言語は概念である:「義理」

言語は概念である:「義理」

「義理」の概念を理解することは、日本人のあり方を理解するということです。

すべての言語は、その言語を作った人の感情的、精神的、知的特性を反映したものなのです。言語は話し手のDNAに組み込まれているとも言えるでしょう。

本質的には、すべての言語は社会的な概念です。

古く、構造化され、排他的な社会とその言語であればあるほど、人々の態度や行動を根本的に支配する、文化的なニュアンスが具現化された表現や用語が多くなります。

日本には早くから儒教が伝わっており、孔子の思想は日本文化に大きな影響を与え、今日に至っています。

孔子の哲学の中で最も重要な考え方は、子供は親に、若者は年長者に、弟子は師匠に、そして全ての人は目上の人に義務を負うという概念です。

親、年長者、教師、上司などとの関係が自然に生まれ、「タテ社会」と呼ばれるようになった結果、人は生まれながらにして義務を負う事になるのです。

そのように自然に生まれた義務は、多くの強力な社会的、経済的、政治的制裁によって強制され、その結果、日本文化の中に深く浸透してきました。これらの義務を守ることは、今や日本人のDNAに焼き付けられていると言ってもいいでしょう。

Obligation Banner

興味深いことに、このような社会的制裁の中で最も強力なものは「恥」だと言えます。(日本社会での「恥と追放」についてはこちらをご覧ください)

現代に近づくにしたがって、日本人は恥をかかされることに敏感になり、恥を避けることが行動の中で最も重要な原則となりました。

現代の日本社会では、孔子が人々のために定めた古代からの義務は、少し減少してはいますが、今でも根強く残っており、社会的にも職業的にも、義務を負うという場面を目にすることができます。

日本社会では、相手が恥ずかしいと感じるような立場にさせない様に、気をつけなければなりません。

さらに「義理」や「義務」そしてこの複雑なタテ社会に関わる様々なことを、よく学んでみて下さい。日本社会をより深く理解することができるに違いありません。

Responsibility and Obligation

言葉は概念である:「さん」と「ミスター・ミセス・ミス」

言葉は概念である:「さん」と「ミスター・ミセス・ミス」

言葉は概念である:「さん」と「ミスター・ミセス・ミス」

言葉は概念である:「さん」と「ミスター・ミセス・ミス」

日本の社会的慣習の中には、慣れるまでに時間がかかることがほとんどですが、私には特に後味が悪い経験があります。

相手の名字や名前の後ろに敬語の「さん」を付けないという小さな不注意が、それほどまでに相手の怒りや不快な争いを引き起こすとは思いもしませんでした。たとえそれが私にとって「友好的」な意味があったとしても。

日本人が相手の名字や名前に敬語の「さん」を付けて呼ぶという古くからの習慣は、外国人にとっては些細なことのように見えるかもしれません。

しかし、外国人がこの非常に重要な社会的慣習についてどう思うかは、全く意味がありません。

誰かを名前で呼ぶ時に「さん」という敬語をつけることが、いかに絶対的で重要であるかという事を認識しなくてはなりません。

「さん」を付けて呼ぶこの習慣は、日本文化の中であまりにも自然に行われているため、敬語の本来の意味が無い様に感じる時もあります。

しかし公式な場で、後輩でも家族でも友人でもない相手に「さん」を付けづに呼んでしまうと、間違いなく礼儀知らずとみなされます。

また、親戚の人に対しても注意が必要です。

昔、前の妻の親戚の結婚パーティーに参列した際、年老いた妻の叔父ともっと仲良くなろうとして、彼の名前を呼び捨てで呼んでしまいました。もっと悪い事に、私は彼を姓ではなく、名前を呼び捨てで呼んだので、それはさらに彼のプライドを傷つけ、事態を悪化させました。

この「事件」は妻の家族内で大きな問題となり、それが忘れ去られるまでにはかなりの年月がかかりました。正直言って一旦浸透したダメージは、長い間回復することが難しかったのです。

全く悪気も無く「さん」という敬称を誤って省いただけなのに、なぜこの伝統的な農家の家でこれほどまでの騒動になってしまったのか、その当時の私には理解ができませんでした。

しかしもしかすると、この年老いた義理の叔父は戦時中に東京の上空から飛行機によって爆弾を落とした白人に対する記憶が偏見となり、その時まで根強く残っていたのかもしれません。

American War Planes Bombing Japan

この様な重要な礼儀を守らないと、日本人や日本文化を軽視しているとみなされることがある事を忘れないで下さい。

外国人の中には、ほぼ対等な立場にある同僚に「さん」を付けずに姓を名乗ってほしいと頼む人もいますし、非公式な場で呼び捨てにし合う日本人もいます。

しかし、ほとんどの日本人は「さん」を付けないことに違和感を感じ、どうしても「さん」を付けたがります。以前に経験した私の「事件」から時が経った今、私にはこの重要な社会的慣習を守る理由が明確になってきました。

これは私たち外国人が「バタ臭い野蛮人」と思われないよう、親愛なる読者の皆さんのためのアドバイスです。

全ての人が不幸にならないために、相手に必ず「さん」を付けて呼びましょう。

San-Mr. Mrs. Ms.Explanation

マスク

マスク

マスク

マスク

ある年の冬、日本で初めてインフルエンザにかかった時、白い医療用マスクをしている多くの人達に驚かされました。日本ではそこら中に医者や看護師がいるのだなと思っていました。

日本人の友人に、なぜ医師でもない一般の人達がマスクをしているのか聞いてみると、「この季節、少しでも体調が悪い時にはマスクをして他の人に迷惑をかけないようにするんだよ。」とのことでした。

このように周りの人間を気遣うところが、日本人はとても素敵で礼儀正しいと思いませんか?

Japanese Bowing To Each Otherとはいえその説明を受けた後も、正直なところ、このマスクの習慣はちょっと変だなと思っていました。

しかしまあこれは理にかなっているかもしれないなと思い直しました。

体調が悪いときは、人混みの中にあえて出かけるべきではないでしょう。日本の大都市では誰もが一度は体験していると思いますが、朝のラッシュアワーの満員電車の中は、いくつかの大きな人混みが波打っている様な混雑です。

とにかく世界的に健康の問題に直面している今、日本人のほとんどが、いいえ世界中のほとんどの人々が季節はずれのマスクをしている訳ですが、ここ日本では明らかにマスクを着けることが大した問題にはなりません。

まず第一に第二次世界大戦後、アメリカの占領軍が強いた憲法のため、今日でもフェイスマスクの着用を日本政府が国民に強制することはできません。しかしウィルスから身を守る、又は他人にウィルスを染さないため「全ての日本人は外出時にマスクを着用するように。」という政府からの「お願い」がありました。

ですから、ほとんどの日本人は特に疑問も持たずにマスクをしています。

しかし、どの社会においてもある意味で目立ちたがりの人がいます。ただし日本では「出る杭は打たれる」ということわざがあります。

ここで日本人の考え方と西洋人の重要な文化的概念の違いが明確になります。

日本:「出る杭は打たれる」

 

Hammer And Nails

西洋:「軋む車輪は油を差される」

SqueakyWheelある反抗的な小さな杭の一人が、日本の国内線の機内でのマスク着用を拒否し、自分の愚かな小さな頭を出っぱらせたのです。飛行機は目的地ではない別の空港に臨時着陸し、機内で不必要な騒ぎを起こした男は逮捕されました。

しかしこの時まだ、この鈍感な日本人は気付いていませんでした。巨額の罰金を受け、そして目的地に付けなかったという非常に残念な結果の他に、日本社会で最も恐ろしいことの一つに直面しているということに。

村八分(むらはちぶ)追放者になるということです。

やっちまった!

歴史的に見ても、これは日本で起こりうる最悪の事態の一つです。恥かしい行いをしたり、法律を破ったりする者は軽蔑され、抑圧されます。

このような事態になれば、仕事上の人間関係だけでなく、家族にも悪影響を及ぼしてしまうでしょう。

不適切で反社会的な行動が、自身の身内や雇用主に恥をかかせることほど、最悪なことはありません。

どんな社会でも、よほどのサイコパスでない限り、人は排斥されたくないものだと思います。

安定と社会通念を重んじるストイックな日本社会では、村八分にされることは過酷なことだと思います。

打ちのめされたこの厄介な「杭」が意味のある半生を取り戻し、再び仲間に引き入れてもらうための贖罪の余地はあるのでしょうか。

もちろんあるでしょう。

しかし、この様なニュース性のある社会的な違反は、たとえ一旦許されたとしても、完全に忘れ去られたものではないということを忘れないで下さい。それは一生の恥として、ずっと先の未来にも自身の負の財産としてまとわりついて離れないのです。

多くの日本人がフェイスマスクを着けることが自由を奪われたとは考えず、私達の大切な日本列島の社会的結束を維持するための、社会的礼儀として受け入れているという事実を、私は本当に誇らしく思います。

更新令和3年1月22日
ブログの記事書いたるように、日本ではこのな反社会的な行動の恥から逃げられない。
ここで読んでみてください。

反省会

言葉は概念である:「甘え」とは

言葉は概念である:「甘え」とは

言葉は概念である:「甘え」とは

言葉は概念である:「甘え」とは

「甘え」への理解を得ることは「あなたが私の背中を掻くなら私もあなたの背中を掻いてやる」という西洋の概念よりも深く、日本の物事への理解を得ることになるでしょう。

言語とは、その言語を作った人の感情や精神、知的特性が反映されたものです。

言語の中には、話し手のDNAに組み込まれた社会構造があると言えるでしょう。

日本語には、日本文化がニュアンスをもつ表現や用語が豊富にあり、それが日本人の態度や行動に反映されているのを見ることができます。

日本の歴史の中で「甘え」という概念は、文化的にも重要な要素で、お互いの絆が長く続く関係を築くための基本的な基盤の一つとなっています。

「甘え」はお互い様です。自分が甘えて何かをやってもらったとしたら、相手が甘えてくる時にはそれに答えなければなりません。

これは日本社会の基礎を固める「暗黙の了解」という習慣によるものです。

神道に由来する「甘え」は原則として、自己中心的な感情や利己的な本能よりも優先されています。確かに「甘え」は社会が円滑に機能するように設計されていることは間違いありません。

もちろん、これは人間の望ましい態度や行動の理想化された概念であり、多くの宗教や哲学の重要な側面を担ってきました。

ここ日本では「甘え」は仏教や儒教の戒律と完全に調和しており、日本文化の一部であり、日本社会の根底にある人間性の核心の一つとなっています。(和を参照)

「甘え」という言葉とその概念は、今でも日本人の文化的な構成の一部であり、ビジネスや政治の場では特に、あらゆる人間関係において、常に主要な役割を果たすでしょう。

「甘え」という言葉は「あなたが私の背中を掻いてくれるなら、私もあなたの背中を掻いてあげる。」といった、より実質的な関係を意味しています。

「甘え」は日本社会を織る織機であり、「甘え」が体現している互恵性は、日本社会の安定した調和のとれた社会の中で重要な役割を果たし続けているのです。

「甘え」の与え方、受け取り方を理解することで、日本人と接する際に非常に貴重なツールを内に秘めることができるのは間違いありません。

おまけ:知り合いの日本人に「甘え」の説明をしてもらったり、具体的な「甘え」の例を教えてもらってみて下さい。あなたと日本人の友達との間で有意義な議論ができるでしょう。

Japanese Girl With Question

なぜご先祖様を祀るのでしょう?

なぜご先祖様を祀るのでしょう?

なぜご先祖様を祀るのでしょう?

なぜご先祖様を祀るのでしょう?

先祖を崇拝するということは、実際にはどのような意味があるのでしょうか。

まず第一に、「崇拝」という言葉は英語では宗教的な意味合いになります。

しかし私は宗教とは関係なく「崇拝」という言葉を使いたいので「尊敬」という意味に言い換えた方が自然かもしれません。

日本の社会や日本人の社会的慣習を考えた結果、太陽を崇拝する様に祖先を祀ることが、この世界や私たちに与えてくれたものへの感謝の気持ちを表す一番の方法であると気付きました。

ちなみに、天照大御神様は太陽の女神です

私にとって先人たちに感謝し、太陽の生命を与えるエネルギーに感謝するというこの概念は、世界のすべての人々との一体感を体現しています。

私には、ある特定の先祖と言える、母方の祖父との特別な思い出があります。

祖父は子供の頃ポリオにかかり、2年間狭い部屋で看病を受けながら生死を彷徨いました。曾祖母と曾祖父はそんな祖父を、ただ見守るしかなかったのでした。

私の母と私にとって幸いなことに、彼は生きのびました。(そして私の父も喜んでいると思います)祖父は闘病中に何百冊もの本を読んでいたので、そのおかげで知的な人間に成長しました。

祖父の霊が私の中に今でも宿っているので、祖父と一緒に過ごした時間を思い出すと、胸がいっぱいになります。祖父の魂はまだこの世界の一部に残っているような気がするのです。

この素晴らしい祖父の記憶は私の代で途絶えてしまうので、祖父の魂もいずれは薄れてしまうと思うととても寂しいです。

しかし先祖の霊は、三途の川を越えてあの世に行った親戚一同と共に、私たちの分身の中に生き続けています。

Mitsunobu_Sanzu_River日本では9月22日頃の「秋分の日」付近のお彼岸と呼ばれる時期に、先祖を偲ぶ仏教の習慣があります。この日には、先祖代々のお寺やお墓参りをして家族の絆を取り戻します。

WorshipingDuringObon実際的には、日本人は人間としての美徳や弱さはすべて自然なものだと考えており、亡くなった人はすべて、人間の経験の全範囲を代表する、ある種の神々のようなものだと考えています。

このような考え方の包括性はとても新鮮で、人生を考え、生きる上でより実践的な方法だと思います。

先祖崇拝を別の視点から見てみると、私は「まだこの世にいるご先祖様」にお祝いをするのがとても好きです。

例えば、妻の両親を一泊旅行に連れて行った時、私は義母に「私たちは、この世にいる間にご先祖様をお祀りするべきだと思います。だから今のうちに親孝行をしたい。」と言いました。

すると彼女は大笑いしながら、私に同意しました。

太陽に感謝の気持ちを伝えながら、今日も生きているご先祖様の一人をお祀りしましょう…ありがとうございます、本当にありがとうございます。

Izanagi-Izanami