全能のハンコ

全能のハンコ

全能のハンコ

全能のハンコ

私は日本に来たばかりの頃、あらゆる所でいつも驚かされました。

その一つは、日本人は小切手をほとんど使わないということでした。

しかし日本やアジアの他の地域では、小切手よりもっと古いものを今でも使っています。

それは印鑑といいますが、一般的に「ハンコ」とも呼ばれています。

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私の印鑑は名前の最初の3つのイニシャルを刻みました。会社の印鑑は、会社の名前を精巧に彫刻したもので、複雑で複製しにくいデザインです。

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日本では、公の手続きのために印鑑が必要です。例えば、銀行口座を開設したり、役所に行って婚姻届を出したり、生まれたばかりの子供の出生届を出したりと、何かと印鑑が必要です。

初めはこれらの印鑑がどのように使われているのか、とても不思議でした。

私の友人だった隣人の農夫の悲しい物語があります。その農夫は農業だけでなく、廃品回収業も営んでいました。そしてその勤勉な働きで、彼は銀行口座に大金を貯蓄しました。しかし年老いてきたので、財産一切の管理を、たった一人の孫に譲りました。さて、その後どうなったと思いますか?ある時その勤勉な農夫は孫に、管理を任せた財産の一部から自分等の生活費を渡すように電話で依頼しました。しかし孫は「銀行にはもうお金が残っていない。」と言いました。一体全体、預けた1億2千万円はどこに消えたのか?信用していたその孫とその孫の父親(農夫にとって義理の息子)は競馬が趣味でした。そしてこの二人は何と1億2千万円分も競馬に費やしたのです!残念なことに、当時の私の古い友人の農夫は、一生質素な暮らしのまま、失意のまま病気で亡くなりました。そしてこの孫はその後も、家業のスクラップを回収する毎日です。

競馬

実際に通帳と印鑑があれば、口座名義本人じゃなくてもお金を下ろす事ができる訳で、印鑑の力は本当に大きいのです。

企業では、社員の個人の印鑑もよく使われますが、そのせいで、度々お役所仕事的な問題につながることがあります。

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例えばある企業の例を見てみましょう。あるプロジェクトを次の段階に進めるためには、5人、6人、あるいは7人の個人の捺印が必要になる事があります。もし、この中の一人でも、何らかの理由や反対意見の為に捺印しなかった場合、その書類とプロジェクトはそこで頓挫してしまいます。

このように、印鑑の使用は非合理的に見えるかもしれませんが、逆の側面もあります。プロジェクトの全員が合意に達しなければならず、彼らが団結して次の段階に入ることができるように、反対意見の同僚を説得しなければならないからです。

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全員が納得してプロジェクトを運営する事で、結果的に意識が高まり、会社や同僚との一体感と結束力を感じるようになります。

Victory

更にハンコを捺印するという事は、その捺印をした人の責任がその文書に生まれ、後々まで残るのです。

残念なことに、この絶対的なハンコは、テレワークが拡大する今の新しい状況下の会社内では必要が無くなってくるでしょう。テレワークの際はハンコを逐一もらうのが難しいでしょう。

私は、この美しい印鑑が好きです。日本の公文書に印鑑をというユニークな方法で取引を楽しんでいます。

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秋田屋 – 日本一の串焼き屋

秋田屋 – 日本一の串焼き屋

秋田屋 – 日本一の串焼き屋

秋田屋;日本一の串焼き屋

あなたがもし日本にほんの数日間でも滞在したことがあるなら、ここが地球の台所であるという事が分かるでしょう。

私は今まで、このの旅の中で、ユニークで美味しい「お店」にたくさん出会ってきました。

昔、週に何回か東京に通勤していた事があったのですが、いつもの様に田舎にある自宅に帰る高速バスの時間まで、バスターミナルの周辺を時間潰しに歩いていた時のことです。

バスターミナルからほんの少し歩いたところで、大きな窓から白い煙がモクモクと立ち昇り、白衣を着た無愛想な男たちが豚の串焼きを焼いているのが見えました。串焼きを焼いている窓の外には、立ったまま串焼きを片手に、酒を飲み交わす人々もいました。所謂立ち飲みです。

秋田屋外

私は即座に「おお、これはもしかしたらもしかするぞ。」と思ったのです。

そして私は勇気を出してこの秋田屋というこの店に入ったのですが、そこから今日までこの店との長い長い付き合いが始ったのでした。

狭い店内にはカウンターや椅子席もありましたが、所狭しと席が設けられ、知らないお客とも肩を触れ合いながらの飲食となっていました。もちろん英語のメニューなどある訳がありません。当初この店の店員達は、この外国人は日本語のメニューで注文ができるんだろうかという白い目で私を見ました。

秋田屋のメニュー01

私は店員に不機嫌そうにカウンターの席を指差され、安物のおしぼりを目の前に叩きつけられ、「何が飲みたいの?」と聞かれました。

その時私は「疲れてお腹がペコペコの日本の永住者に、ビールを一本お願いいたします。」と丁寧な日本語で答えました。

メニューを見てみると、とても美味しそうなものがたくさんあって、色々と試してみたくなりました。

まずは豚のモツ煮込みを注文。

因みに日本の居酒屋には、必ずと言っていいほどモツ煮込みがあります。

もつ煮込み

さらに私は、豚のタンとカシラと軟骨の串焼きを注文しました。

焼き豚 ガツ盛り合わせ02モツ煮込みを一口食べると天使のハレルヤが頭に響き、私はついに完璧なモツ煮込みに出会えたのだと確信しました。豚のモツが口の中でとろけていくその瞬間、今まで経験したモツ煮込みは何だったのだろうと思うくらい、それは最高のモツ煮込みだったのです。

そしてさらに私の気分を良くしたのは、店員の老婦人が店内をきびきびと気を配りながら歩き回り、客をまるで自分の子供のよう扱いながら、世間話をしていたからです。

老婦人04

結婚経験もない彼女は、この日本を背負った、空腹で疲弊したサラリーマンたちにサービスを提供するために、一生涯をこの店に捧げたのです。

想像してみてください。

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She used to like to wear my hat.

彼女はまた、彼女のお気に入りの常連客の中から選ばれたお客さんだけに特別な自家製のぬか漬けをサービスで出してくれるのですが、幸いなことに、その後私もその内の一人になる事ができました。

そして私は彼女のユーモアのセンスが大好きでした。

それは暮れも押し迫ったある日、私は東京へ行き、また秋田屋に寄って帰ろうと思ったのですが、その時店のシャッターは閉まったままでした。がっかりして立ち去ろうとすると、たまたま通用口から出てきた彼女に出くわしました。私が「今日はお店が閉まっていて、美味しいものが食べられなくて残念です。」と言うと、彼女は「1月4日の正月休み明けにまた開店するから、それまでここに並んでいていいよ。」と言ったのです。そんなブラックジョークを言う彼女が私は好きです。

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秋田屋が閉まっていたその日は12月29日でした。ジョークは面白かった訳ですが、しかし私は悲しく、お腹が空いたまま帰ったのでした。

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彼女は兄弟と共に、遠く離れた秋田県北部から上京し、この店を設立しましたが、私が常連になった頃、兄弟の中のただ一人の生き残りでした。一家が私がいつも利用するバスターミナル近くの浜松町に、この唯一無二の豚モツ焼き店を開いていただいた事を感謝します。時は流れ、彼女も亡くなってしまいましたが、彼女のいたずら魂は、このに生き続けるます。

さて、この店では「くさや」という珍味も食べられます。「くさや」とは、発酵した、焼くととんでもなく臭い魚のことですが、一旦口の中に入ると、とろけるような甘みのある味わいで、私の好きな冷酒を引き立ててくれるのです。

くさや02くさや01

初めの頃に、この店でウーロンハイを注文したことを思い出します。今ではウーロンハイはこの手の店では定番の飲み物であり、私はもちろんこの店にもあるものと疑いませんでした。しかしなぜか秋田屋のメニューにはその時も、そして今だに無いのです。不機嫌な店員からの辛口の返事は「置いてねえよ。」でした。

秋田屋のスタッフは、日本のお腹を空かせたサラリーマンのために、真面目に働いてくれているだけではなく、味があるとてもいい人たちです。

https://bit.ly/2Zw7xLV

秋田屋のマスター

秋田屋スタッフ01焼き豚マスター

東京の中心部にある本格的な立ち飲み屋、ぜひ行ってみてはいかがでしょうか。?。?。

淀川長治

淀川長治

淀川長治

淀川長治

史上最高の映画批評家の1人。

淀川長治は映画に一生を捧げました。

私が生まれる1年前の1962年から彼が亡くなる1998年11月まで、淀川長治氏はテレビ朝日の日曜洋画劇場にコメンテーターとして一度たりとも休まず出演しました。

私は1987年に日本に来て初めて自分のテレビを手に入れました。それは友人からの贈り物でしたが、当時のテレビにはバイリンガル機能がありませんでした。

ですから私は日本語でテレビを見るしかなかったのですが、毎週日曜日の夜に、当時既に高齢でしたが、この映画番組のコメンテーターをしていた淀川氏は、物腰が女性的で非常に興味深い男性だと感じました。

淀川氏の映画への熱意と情熱はまさに圧巻でした。彼は全身全霊で映画を愛していたのです。

あなたにとって1987年はどんな年でしたか?私は当時、日本語がまだ話せなかったのですが、このユニークでやや派手な雰囲気の映画評論家はとても魅力的に感じました。

そしてその何年後かに淀川氏がアーノルド・シュワルツェネッガーにインタビューしたことを思い出します。

インタビューの最後に、小柄な淀川氏が椅子から立ち、シュワルツェネッガーの上腕二頭筋に触りました。そしてシュワルツェネッガーの筋肉がどれほど素晴らしくて硬いかについても触れていました。その時の淀川氏は、ああそうかとという表情でした。

Nagaharu Yodogawa with Arnold Schwarzenegger シュワルツェネッガーは、常にユーモアを忘れない人たっだので、インタビューをその場でやめて、一緒に夕食に出かけようと淀川氏に返しました。

そして別のインタビュー映像で淀川氏は、「一緒にお風呂に入りましょうね。」とも言っています。「あなたは色んな事を要求しますね。いいでしょう、一緒に風呂に入りましょう。」とシュワルツェネッガーはこの時もユーモアたっぷりに答えています。

淀川氏はその当時では珍しく、生涯を独身で貫いた人でした。「私は映画と結婚している。」と彼は言いました。 そして「それは妻をとらないことに対する自分への罰なのです。」とも。

興味深いことに彼は、同性愛をテーマにした映画を擁護する内容の本を書いています。彼は映画の観衆向けて「同性愛者を恐れるのをやめましょう。」と優しく忠告しました。同性愛者が独立した精神や勇気を持つ事を、私達が高く評価するためのメッセージでした。

淀川氏は先見の明があったのです。

また来週のこの時間時にお会いしましょう。さよなら、さよなら、さよなら。」というお決まりのフレーズです。

この並外れた象徴的でもある日本の映画評論家へ敬意を表して、私も全てのポッドキャストの最後に「さよなら、さよなら、さよなら。」と言って締めくくっています。

映画評論家の淀川長治:1909年4月12日神戸生まれ。 1998年11月11日に東京で死去。

Nagaharu Yodogawa 淀川長治

おまけ:淀川氏関連からセシル・B・デ・ミルの 『 チート』(1915)という映画を発見し、YouTubeで観ることができました。この白黒のサイレントフィルムは、最近の安易なリメイク映画よりもはるかに優れていると思います。

日本人女性の夫の定義; 3つのこと

日本人女性の夫の定義; 3つのこと

日本人女性の夫の定義; 3つのこと

日本人女性の夫の定義; 3つのこと

心理学者の母親を持つ私は、人間関係を探求することに常に興味をそそられます。

ここ日本に数十年間住んでいますが、私はある日本人女性と、日本の夫と妻の関係性について話す機会がありました。

日本の典型的なサラリーマンは皆、毎朝とても朝早い電車に乗るために自宅を後にし、仕事が終わると今度は上司、部下、同僚、または顧客と付き合いで飲み、夜遅くほろ酔い加減で家は寝に帰るだけというイメージが強いですね。

少し前の日本の伝統では、女性は専業主婦になる事が一般的でした。家を守り、子を育て、子供の幼稚園、学校、習い事の送迎などで1日を費やすのが普通でした。

日本では「単身赴任」と呼ばれるものがあります。

サラリーマンは、日本中のさまざまな場所に、そして世界中の国に派遣されています。

東京の中心部にある家に家族を残し、15年間も単身赴任で過ごした優秀なエンジニアを知っています。彼はブラジル、サウジアラビア、インドネシア、三重県、茨城県など、色々な場所へ派遣されたそうです。

彼の妻は「夫の転勤の為に一家で引っ越しをしてしまったら、一人娘の教育に差し障りが出るでしょう。」と言いました。

日本の男性は少なくて数ヶ月、多くの場合数年間も家族と離れて暮らす事になったとしても、転勤の辞令に従い会社に忠誠心を示します。

悲しいかな、先述の優れたエンジニアは、彼の唯一無二、最愛の娘の成長に立ち会えませんでした。

西洋人の夫は単身赴任をすることは稀なので、私は彼の話を聞いてとても驚きました。カナダに住む私の父だったらとてもあり得ないことでした。

私はよく夫が留守がちの主婦に、夫への気持ちについて尋ねるのですが、日本人の女性が自分の夫について思う事は大きく3つに分類されます。

1:粗大ゴミ:邪魔で大きなゴミのこと。

夫が家にいるだけで何もせず、大きなゴミのようで妻の邪魔になり、存在自体にも価値がないという意味。

LargeGarbage

Sodai Gomi: A large piece of garbage that’s hard to move.

2:濡れ落ち葉:払っても払ってもなかなか離れないと言う意味から転じて。

主に定年退職後の夫が、特に趣味もないために、妻が出かけようとすると必ず「ワシも付いて行く。」と言って、どこにでも付いて来る様子を指すようになった。

Nure Ochiba

Nure Ochiba: A sticky leaf that cannot be swept away

3:ていしゅげんきでるすがいい:亭主元気で留守がいい。

これはテレビコマーシャルでオバタリアン数人がこの言葉を合唱して人気になった流行語です。一度聞いたら忘れられません。元気でお金を稼いで、そして家にいると邪魔な夫が留守にしてくれたらどんなに楽でいいという、日本の主婦の飾らない本音を上手く表現しています。

Teshu Genki De Rusu Ga Ii

Teshu Genki De Rusu Ga Ii:A good husband is health and absent

 

昔の日本人女性は夫に頼り、稼いで来てくれる大切な家の主人として敬いました。しかし最近は自立した女性も多く、また専業主婦であっても立場が強くなっている場合も多く、上記の3つのような場面も隠さず、言いたい事をいうようになってきています。

日本人女性の友人がいたら、夫の事をどう思っているかを是非尋ねてみて下さい。この3つどのタイプが一番当てはまるかも分かると面白いですね。西洋人と日本人の夫婦関係の違いについて興味深い会話ができるでしょう。

自己の存在理由

自己の存在理由

自己の存在理由

自己の存在理由

「生きがい」とは「自分の存在価値」を意味する日本人の考え方です。

自分の人生の目的や方向性が価値あるもので、自分自身の考えで行動することによって、人生に満足感と、意味があるんだという感情が「生きがい」となります。

「生きがい」は「生きる」と「甲斐」という言葉で構成されています。

この美しい概念は、「自分の道を見つける」というタイトルのブログ投稿で説明した「日本道」と通じています。

「生きがい」は人生に目的意識があり、やる気があるという意味なのです。

「生きがい」を感じて生きることは、自分自身の幸福となります。「生きがい」は自分の人生を追求し楽しむことに専念する、という心と行いを伴なわなければならず、それが達成感を産むのです。

確かに生きがいを理解することは、私たちが自分の人生における自分自身の意味を探し求め発見し、自己の実現につながります。
あなたは、この重要な日本の概念を理解し、自身の内に秘めて生活をすることで、確実に自分自身に報いることができるのです。

あなたは「生きがい」を見つけましたか?

まだ迷っているのですか?大丈夫です。探し続ければ必ず見つかるでしょう。

 

少年たちよ、野球は中止だ

少年たちよ、野球は中止だ

少年たちよ、野球は中止だ

少年たちよ、野球は中止だ

今年の夏の全国高等学校球選手権大会、通称夏の甲子園大会は数十年ぶりに中止が決まりました。

なんということでしょう。

私は個人的には、スポーツを観戦するよりもやる方が好きで、地元のクラブでバドミントンをやっています。ただし、日本の高校野球に限っては、選手たちの情熱と根性が特別に気に入っています。

甲子園大会というこのトーナメントは日本で最大のアマチュアスポーツイベントです。一度でもこの大会を見たことがありますか?もしも本戦でも予戦でも、この高校選手権で頑張っている選手たちを見たことがあれば分かると思いますが、他のスポーツの世界で類をみない独特のものなのです。

この大会は多くのプロ野球選手を目指すという究極の目標を持った高校球児にとって、国内やメジャーリーグの球団にアピールするという大きな機会でもあります。

100年以上の大会の歴史の中で、これまでに二回だけ中止になったことがあります。この大会は1915年に始まりましたが、一度目の中止は1918年に米騒動のため、そして二度目は1941年でした。1941年は太平洋戦争の最中、地方大会の途中で中止となったのです。

今回の中止は関係者全員にとっての「ブラックスワン」だったと言えます。
この重要な、人生に一度きりの大会中止により、意欲的な高校野球選手たちは深く悲しみ落胆し、その衝撃の余波は彼らの家族や支持者だけでなく、私たち全国民にも伝わりました。
*ブラックスワンの注釈必要だと思います。日本人は知らない人が多いので。

なぜでしょう?

健全な試合による全国の統一感。

日本人同士のライバル関係は非常に激しいのですが、この高校野球のような大会は、日本人が自分のチームを応援することで一体感を高めるいい機会です。

そしまた、日本の多くの長年のファンにとって、この毎年恒例の大会は、自分の出身県のチームを応援する時に、望郷の気持ちを抱かせます。

若い野球選手、高校、そして支援者にとって、大会関係者の人間たちの判断一つで、自分たちの今までの努力と夢が水の泡となった悲しいお話は、卒業後も永遠に語り継がれるでしょう。

参考:
アメリカのメジャーリーグで活躍した甲子園出場経験のある日本人選手たち。鈴木一郎(通称イチロー)、松岡大輔、松井秀樹(通称ゴジラ)

多くの人々がアメリカのメジャーリーグで最初に活躍した日本人は野茂英雄だと思っているでしょう。しかし実際のパイオニアは1964〜63年のシーズンにサンフランシスコ・ジャイアンツで1年間投球した、村上雅則だったのです。