
目覚まし時計
自分の隅々を探り、物質的な存在の世界を歩みながら、人生に意味を与える内なる世界へと進んでいく。そのなかで、ひらめきはさまざまなところからやってくる。
そして、目覚まし時計もさまざまなところからやってくる。人生の目覚まし時計には、ときに残酷なところがある。そのため、目覚ましの音が不安や驚きを呼び起こすことも少なくない。それは、自分の胸のなか、頭のなかで、ずっと鳴り続けている時計のことだ。
もしかすると、自分の内なる次元からの呼びかけに、耳を傾けてこなかったのかもしれない。
その目覚ましは鳴り続け、一心に耳を傾けるよう求めている。

この目覚まし時計の存在に氣づくと、その音に驚かされ、果たしてこなかった約束が見えてくるかもしれない。それは、遠い昔に見失った夢の原野を映し出すものだ。
立ち止まって内側を見つめると、自分がなぜこの母なる地球にいるのか、そして自分だけの使命とは何なのかを、感じ始めるかもしれない。

ひとたび目覚めれば、ようやくスヌーズボタンに手を伸ばすのをやめ、セイティが信じるよう呼びかける自分の内なる世界に、耳を傾けるようになるのかもしれない。
内側を見つめても、運命の完全な設計図が手渡されるとは限らない。それでも、この母なる地球で踏み出せる、次の誠実な一歩が見えてくるかもしれない。見え始めたものを、自分はどう生かしていくのだろうか。

この目覚まし時計は、ベッドの脇に置かれ、始まる前から憂うつかもしれない一日のために、自分を起こすものではない。
憂うつは、誰もが生きていかなければならない現代の世界を貫く、共通の糸でもあるのだから。
企業という機械のなかで生涯をかけて働いてきた日本人の友人は、これが人生のすべてなのだろうか、人生には本当はどんな意味があるのだろうかと、思いを口にした。

その目覚ましは問いかける。次に何ができるのか。感謝をどこへ向けられるのか。そして、心と魂と思考のすべてをもってこの世界を生きる、自分であるとはどういうことなのか。
ときには、人生の絵コンテが、ただ自分の境遇を受け入れて諦める物語になっている。それ自体が、多くを物語っている。けれど、慣れ親しんだ道にも、後悔や悲しみ、そして、そうなれたかもしれない未来の、果たされなかった約束が敷き詰められていることがある。

誤解しないでほしい。いま取り組んでいる仕事が自分を目的意識で満たし、人生に意味を与えているのなら、目覚まし時計は静まり、自分にとっての聖なる場所を、すでに見つけているのかもしれない。
誰もが、なりたい自分の姿をはっきり思い描けるわけではない。自分の進む方向が見えないとき、外の世界や割り当てられた仕事が、自分のアイデンティティを形づくっていく。

けれど、本当に、少しのぞいてみてほしい。子どものころの夢を思い出せるだろうか。まだ幼かったころに抱いていた夢。親から追い求めるよう言われたものではなく、自分の魂の奥に響いた、ごく初めの言葉のなかで聞いた夢だ。その言葉こそ、自分のセイティの声だったのかもしれない。

他人の内なる世界、つまり、その人の体験の質であるクオリアを、誰かが直接体験することはできない。自分の人生の隅々を歩き回るなかで、自分だけの特別な人生という映画の、より意味のある場面へと呼びかける目覚ましの音を、聞き逃しているのかもしれない。
誰もがアンテナを持っている。大切なのは、内なる世界の声に周波数を合わせることだ。その声は、バランスへ、そして、よりホメオスタティックな在り方へと、自分を呼び寄せている。

現代の世界は、危険や回り道に満ちている。だから、目覚まし時計の呼びかけに耳を傾けることが、自分だけの量子場へと踏み出す次の一歩になるのかもしれない。ここでいう量子場は、探求を待つ可能性を表す比喩だ。
そんなものは現実ではない、と言う人もいるだろう。笑顔をつくって周囲に合わせ、世の中の重圧に耐え、社会が自分のために敷いた道を進め、と。

それでも、この現代の世界には、自分のライフワークを見つける道もある。働くことは、生き生きと生きることにもなり得る。自分の世界をつくり始めるなかで、魂に命を吹き込むことにもなるのだ。
いま生きている人生の、どこに自分がいるのかを見つめてみよう。そして、覚えておこう。自分は、まばゆく輝く星の下に生きている。
人間としての体験の隅々を歩みながら、目の前にある可能性に、時間をかけて目を向けてみよう。
自分が取り組むよう呼びかけられている仕事によって形づくられる、自分だけの場所をつくろう。
自分の進む方向が見つかるにつれて、目覚ましの音は静まり、自分だけの世界をつくり始められるのかもしれない。



