
狂気と正気
この現代の世界では、物事が奇妙に見える。ときには、狂気と正気がほとんど入れ替わるように思える。辞書なら、両者は同じではないと言うだろうけれど。

自らのビジョンや夢を追う人が、物質的な世界から離れていくように見えるのは、不思議なことだ。

おそらく彼らは、内なる現実を映す、自分だけの世界を築いているのだろう。

いつの日か、その内なる世界が、私たちの共有する現実の一部になるかもしれない。テレビを通して、ということもあるだろう。宮崎駿が自らの知性に命を吹き込み、それを地上の生身の夢へと運んできたように。

多くの場合、人はマトリックスのぬかるみに囚われ、自分の視野を縛る鎖に気づけずにいるように見える。

一方で、狂っている、風変わりだ、さまざまなものを取り入れている、と見られる人もいる。しかし、それらは、自分らしく生きる人々に世間が貼ったラベルにすぎない。

おそらく、自らの内なる意志に従って生きる人は、ある種の正気を手にしているのだろう。

人口の少ない土地から来た私は、初めて日本に着いたとき、別の意味で驚くものに出会った。東京の迷路のような鉄道網だ。街を縫うように走る列車には、人々がイワシのようにぎっしり詰まっていた。「うわ、これはすごい!」と思ったことを覚えている。

人々は満員の列車に押し込まれ、日々の暮らしを送っていた。片道二時間、往復で一日四時間を通勤に費やす人もいた。「信じられない!」

これが大勢の通勤者にとって毎日の繰り返しなのだとは、にわかに信じられなかった。産業社会の喧騒のなかで道を見失ってはいないかと、自分に問いかけたことがあるのだろうか。そう思った。

その光景を見て、外見は内なる人生を映し出すのだろうか、と考えた。セイティに送り出され、夢を追って型にはまらない旅をする人々は、正気の別の意味を私たちに示しているのかもしれない。

世間で正しいとされる物語から遠く離れた、人里離れた場所に暮らすことを、狂っていると思う人もいる。けれど、多くの人が主流の現実の外で、自分の夢によって形づくられた世界を生きている。

だから、この考察で伝えたいことは簡単だ。外から見えるものだけで、人を判断しないようにしよう。誰もが、気づいていてもいなくても、自分自身のストーリーボードのなかを生きているのだから。

私たちは皆、状況に応じて変わる仮面をかぶっている。あなたが見ているのは、その人がその瞬間にかぶっている仮面だ。それは、その人の内なる現実を少しだけ教えてくれるかもしれない。

セイティの手を取り、魂の深みを探ったことがあるなら、まったく異なる視点から世界を見ることになるかもしれない。他の人が狂気と呼ぶものは、心の奥深くに見いだす正気なのかもしれない。

肝心なところ、奥まった場所にある引っかかりは、自分の最も内なる現実に夢中になることだ。内なる魂を映す鏡に向き合うとき、正気が始まるのかもしれない。

古き良き日々を懐かしむ人にとって、その日々はもう過ぎ去り、今では歴史の記録のなかにある。

狂気と正気の意味を考え直すとき、適応力と柔軟性は、入口を開く鍵になる。

おそらく今こそ、システムのスイッチが切り替わり、かつて知っていた世界が保存記録へと移っていく瞬間なのだ。

新たな現実が現れるなかで、狂っていると呼ばれてきた人も、自分はまだ正気の世界に生きていると信じる人も、次に訪れるものへ心を開く必要があるのかもしれない。

物事は、いつも見た目どおりとは限らない。狂っているとされる人が正気で、正気とされる人が少し狂っていることもある。

世界が変わるにつれて、私たちの視点も変わらなければならない。自分の過去に、晴れやかに別れを告げよう。

あなたの魂の奥で何が育まれてきたのか、他の誰にも分からない。かつて少し狂っているように見えた人は、すでに入口をくぐり、自分にとっての正気を新たに定義する、美しい道へ踏み出していたのかもしれない。



