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狂気と正気

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この現代の世界では、物事が奇妙に見える。ときには、狂気と正気がほとんど入れ替わるように思える。辞書なら、両者は同じではないと言うだろうけれど。

日の差す机の上で、開いたスケッチブックから、手描きの空想の風景が幾重にも立ちのぼっている。

自らのビジョンや夢を追う人が、物質的な世界から離れていくように見えるのは、不思議なことだ。

作り手の作業台の上で、小屋、木々、橋、曲がりくねった小道のある手づくりの小さな世界が形になりつつある。

おそらく彼らは、内なる現実を映す、自分だけの世界を築いているのだろう。

明るい居間の小さなテレビから絵の風景があふれ出し、開いた窓の向こうの景色とひとつになっている。

いつの日か、その内なる世界が、私たちの共有する現実の一部になるかもしれない。テレビを通して、ということもあるだろう。宮崎駿が自らの知性に命を吹き込み、それを地上の生身の夢へと運んできたように。

上から見た透明なガラスの迷路に細い鎖が張りめぐらされ、琥珀色の光の帯が出口へ向かって通り抜けてゆく。

多くの場合、人はマトリックスのぬかるみに囚われ、自分の視野を縛る鎖に気づけずにいるように見える。

庭のテーブルに「CRAZY」「ECCENTRIC」「ECLECTIC」と書かれた破れた紙のラベルが置かれ、その横で素焼きの鉢から野の花がのびのびと育っている。

一方で、狂っている、風変わりだ、さまざまなものを取り入れている、と見られる人もいる。しかし、それらは、自分らしく生きる人々に世間が貼ったラベルにすぎない。

淡い青の平行線が並ぶなかを、一本の金色の糸が自分だけの曲線を描いて進んでいる。

おそらく、自らの内なる意志に従って生きる人は、ある種の正気を手にしているのだろう。

濃い灰色のコートに黄土色のマフラーの旅人が、駅の窓から、東京の入り組んだ線路と列車を見渡している。

人口の少ない土地から来た私は、初めて日本に着いたとき、別の意味で驚くものに出会った。東京の迷路のような鉄道網だ。街を縫うように走る列車には、人々がイワシのようにぎっしり詰まっていた。「うわ、これはすごい!」と思ったことを覚えている。

混み合う日本の通勤電車でつり革につかまる人々。手前の腕時計が、移動に費やされる時間を物語っている。

人々は満員の列車に押し込まれ、日々の暮らしを送っていた。片道二時間、往復で一日四時間を通勤に費やす人もいた。「信じられない!」

淡い青の歯車と環状の線路でできた紙のレリーフが、中央にひらけた曲がりくねった小道を取り囲んでいる。

これが大勢の通勤者にとって毎日の繰り返しなのだとは、にわかに信じられなかった。産業社会の喧騒のなかで道を見失ってはいないかと、自分に問いかけたことがあるのだろうか。そう思った。

山々を映す静かな湖をはさんで、まっすぐな舗装路と、花咲く野を曲がりくねる小道がのびている。

その光景を見て、外見は内なる人生を映し出すのだろうか、と考えた。セイティに送り出され、夢を追って型にはまらない旅をする人々は、正気の別の意味を私たちに示しているのかもしれない。

遠くの山々を望む緑の斜面に、庭に囲まれた人里離れた石造りの小屋兼アトリエがあり、開いた扉の奥に画架が見える。

世間で正しいとされる物語から遠く離れた、人里離れた場所に暮らすことを、狂っていると思う人もいる。けれど、多くの人が主流の現実の外で、自分の夢によって形づくられた世界を生きている。

小さな風景や音符、暮らしの品々を宿した半透明の帯が、それぞれの模様を保ちながら織り合わさっている。

だから、この考察で伝えたいことは簡単だ。外から見えるものだけで、人を判断しないようにしよう。誰もが、気づいていてもいなくても、自分自身のストーリーボードのなかを生きているのだから。

明るいアトリエの白木のテーブルに、表情の異なる四つの白い陶器の仮面が置かれている。

私たちは皆、状況に応じて変わる仮面をかぶっている。あなたが見ているのは、その人がその瞬間にかぶっている仮面だ。それは、その人の内なる現実を少しだけ教えてくれるかもしれない。

山々を望む明るい草原で、旅人があたたかな光でできた手に向かって手を伸ばしている。

セイティの手を取り、魂の深みを探ったことがあるなら、まったく異なる視点から世界を見ることになるかもしれない。他の人が狂気と呼ぶものは、心の奥深くに見いだす正気なのかもしれない。

日の差す何もない部屋に置かれた古い楕円の鏡が、部屋ではなく、川が枝分かれする光あふれる風景を映している。

肝心なところ、奥まった場所にある引っかかりは、自分の最も内なる現実に夢中になることだ。内なる魂を映す鏡に向き合うとき、正気が始まるのかもしれない。

日の差す図書室の閲覧机に、古い写真の箱、使い込まれた日記、束ねられた手紙が広げられている。

古き良き日々を懐かしむ人にとって、その日々はもう過ぎ去り、今では歴史の記録のなかにある。

しなやかに曲がる半透明の色ガラスの帯が組み合わさり、光に満ちた三つの大きな入口を形づくっている。

狂気と正気の意味を考え直すとき、適応力と柔軟性は、入口を開く鍵になる。

作業台の上で、古い町の模型を収めた保存箱の横にトグルスイッチが置かれ、窓の向こうには明るい現代の街並みが広がっている。

おそらく今こそ、システムのスイッチが切り替わり、かつて知っていた世界が保存記録へと移っていく瞬間なのだ。

硬く凍った幾何学的なかたちが、花咲く野と川、日の光に満ちた地平へとひらけてゆく。

新たな現実が現れるなかで、狂っていると呼ばれてきた人も、自分はまだ正気の世界に生きていると信じる人も、次に訪れるものへ心を開く必要があるのかもしれない。

なめらかで整ったものと、自由で不規則なもの。組み合わさった二つのガラスの彫刻が、明るい鏡面の上で互いを映し合っている。

物事は、いつも見た目どおりとは限らない。狂っているとされる人が正気で、正気とされる人が少し狂っていることもある。

石のベンチに古い写真が残され、日の差す小道が、ひらけた地平へとのびている。

世界が変わるにつれて、私たちの視点も変わらなければならない。自分の過去に、晴れやかに別れを告げよう。

野の花となだらかな丘のあいだを曲がりくねる石畳の道を、小さく見える旅人が歩み去ってゆく。

あなたの魂の奥で何が育まれてきたのか、他の誰にも分からない。かつて少し狂っているように見えた人は、すでに入口をくぐり、自分にとっての正気を新たに定義する、美しい道へ踏み出していたのかもしれない。