6 分で読める

白紙

🎧この記録を聴く
表示言語English

真っ白な一枚の紙を見つめるときの感覚には、何ものにも代えがたいものがある。いや、それはむしろ、自分の人生というキャンバスを見つめる感覚なのかもしれない。

子どもの頃、目の前にあったあの白い紙は、いつの間にか現代社会の灰色の領域へと色あせてしまうことが多い。

切り紙の場面が二つに分かれている。左では赤い服の子どもが色鮮やかな風景の上を舞う折り紙の鳥へ手を伸ばし、右では灰色の同じ姿の人々が無彩色の街の下、机に整然と並んで座っている。

子どもの生きた想像力が国家という機構にぶつかるとき、白い紙はすっかり消えたように見える。驚きや好奇心まで、管理でき、測定でき、従順なものになるよう求められるときだ。

現代の日本では、ほかの信頼度の高い社会と同じように、内側をくり抜かれたように見える人に出会う。その姿を見ると、同調に支配されがちな公教育の内でも外でも、人格が形づくられる時期に何があったのだろうと思わずにはいられない。

和室の低い机に向かい、着物姿の女性が後ろ姿で座っている。目の前には淡く光る白紙が立てかけられ、手漉きの紙の帯が、朝日の差す丸窓のそばを流れている。

実践のプロトコルは、ここから始まる。誰もが、もう一度白紙へ戻る道を与えられなければならない。白い紙は、本当は一度も消えていなかったのだから。

それは、弟子の準備が整うのを待っていた。内なる存在を見いだし、セイティが神秘的に姿を現すこと、そして今この地上に満ちる守護神たちの実在に氣づく、そのときを。

石の台の上に、手漉きの紙が二枚並んでいる。一枚はなめらかで手つかず、もう一枚は深い折り目が刻まれ、繕われている。かたわらには色鉛筆と顔料の皿が置かれている。

誰もが同じ白い一枚から始めるわけではない。ひどい折り目がつかないよう守られた紙を受け取る人もいる。それはよく、銀の匙をくわえて生まれてきた幸運、と表現される。

一方で、貧困、悲しみ、故郷を追われること、嘲笑、見捨てられること、あるいは失敗によって、すでに折り目のついた紙から始める人もいる。実に多くの人がそうであるように。

破れた手漉きの紙が、割れ目に沿って金で繕われている。その継ぎ目を横切るように、赤と青緑の葉が新たに描かれ、端には筆が置かれている。

それでも、傷んだ紙に新たな印をつけることはできる。悲劇に最後の言葉を渡すまいとする、ひと筋の色を。

最初の一行を書いたからといって、傷が消えるわけではない。そうではない。それは、その傷で物語が終わらなかったことを証明するのだ。

机の上の張り子の地球儀から、光る繊維の束がネットワーク機器や世界地図を映すノートパソコンへと伸びている。窓の外には夕暮れの街が広がっている。

だからこそ、この幻想的な寓話に宿る魔法は、人の可能性をひらき、認識を澄ませる新たなパラダイムなのだ。それは、自分の内なる声を見つけた誰にでも属する。人生を束の間の夢と見つめ、自分だけの星のような主題へ手を伸ばす人、その一人ひとりの内に、白紙は生まれながらに備わっている。

白い紙に隠された鍵は、こういうことだ。あなたが誰であれ、どこに立っていようと、目の前に紙を置き、胸の内も腹の底も、世界中の人に見えるようワールド・ワイド・ウェブへさらけ出してしまおう。まだ始めてもいない人たちが、動物園の珍獣を見るようにあなたを眺めたとしても。

色とりどりの紙を重ねた衣をまとう人物が、柵に囲まれた中でイーゼルに向かって絵を描いている。周囲では灰色の石のような見物人たちが身を乗り出して見つめ、頭上を折り鶴が舞っている。

この機会を受け入れる人は少ない。新しい自分として生きることを求められるからだ。求められるのは「初心不忘」、すなわち初心を忘れず、失敗するたびに自分を許すことである。

人生は、安全にたどり着かなければならない目的地ではない。真に感じ、意識する存在の、最も奥深いところを巡る旅なのだ。この道を歩む人が少ないのは、異端になるより集団に同調するほうが、ずっと居心地がよいからである。

背負い袋と赤いマフラーの男性が、海に浮かぶ大きな金色の太陽へ向かって、石畳の村道を下っていく。かたわらの塀には猫が座り、道には花が枝を伸ばしている。

生きた実例を求めるなら、津田梅老を訪ねてみるといい。彼なら知っているはずだ。日本社会の奥深く、ときには危うい路地裏へと、太陽が導く先をどこまでも追う運命にあったのだから。セイティの声は、カガミクリスタルのように澄みきった明晰さで届いた。彼は、番号なし(#∅)の自由奔放なアバターとして、太陽を追う運命にあった。

ここで白い紙は、とびきり幻想奇譚的で、スーパー・デューパーなものになる。愛すべきM5がかつて彼を呼んだ「フリーク」という名。それは、彼に贈られた最高の呼び名の一つだった。そのフリークの軌道が、思いがけない方向へ曲がっていく。

飛び出す絵本が開き、灯籠を提げた大きな樹が枝を広げている。その下では明かりのともる集いの建物に人々が集まり、奥には夕暮れの海と山が広がっている。

その軌道はやがて、私たちのネオ氏族の家系の樹の重心であるABC文化センターへと展開していく。その方向を決めたのは個人の意図ではない。セイティの意志によって授けられたものだった。

そして私たちを取り巻く従来の構造も、守護神たちの介入によって姿を変えた。こうした力もまた、自分の物語の白い紙に描き込まれるものなのだと受け入れたとき、すべてが全体として腑に落ち始める。

破れた紙を背に古びた旅行鞄が置かれ、そこから赤と青緑の葉が伸びている。奥では夕日の中、客船が富士山と朱塗りの鳥居の前を進んでいく。

実は、この物語はすでに一部が書かれていた。最初の詩の一節が現れたのは1968年。私たちネオ氏族の守護神が日本を訪れ、日本の人々との関係を結び始めた年だった。この白い紙の物語が本当に始まるのは、そこからだ。貧困を抜け出し、最も神聖な夢を実現する、その可能性から。

その守護神はやがてマギー・メイのもとへたどり着き、そこで家系の樹のささやかなこの枝が始まった。その枝は毎日、AとBを結び合わせ、第三文明を生み出すことに励んでいる。

開いたスケッチブックに同じ樹が二度描かれている。左の頁では鉛筆の線だけの姿、右の頁では幾重にも重ねた色紙の葉が生い茂っている。

それが可能になるのは、自分自身の塗り絵に色を重ね続けるときだけだ。社会が何と言おうと、疑いが何度忍び寄ろうと。それこそが白い紙の道である。出発点がどこであれ、どんな境遇から始まったのであれ、描き込んでいくこと。

いつも覚えていてほしい。どこから始めたかは重要ではない。大切なのは、あなたを先へ運ぶ枝であり、今日立っている場所であり、これから何者になっていくかだ。その「なっていくこと」の内に、自然の道の根幹となる核が宿っている。

夜、灯籠と紙の星を提げた大樹の下で、人が小さな机に向かって書いている。足元では犬が眠り、遠くには灰色の山並みが見える。

この場合、エゴは完全にセイティの声へと置き換わり、家系の樹を見守る守護神たちが寄り添っている。これほどの応援団と、これほど揺るぎない導きを得ながら、孤独と静けさの中で自らの運命を創っていけるとは、何ものにも代えがたい。

なぜこれが、偶然の異邦人の運命なのだろう。社会の氣まぐれや意志に左右され、同調という枠の中で凍りつく代わりに、自由であり続けるよう選ばれたのは、なぜなのだろう。

大きな二つの円が重なっている。左の円には灰色の単色の山景が、右の円には日の差す暖色の山景が収まり、重なり合う中心には、水面へ開ける金色の光が生まれている。

正直に言えば、私には分からない。だから私に聞かないでほしい。あなたのセイティに、私のセイティと話してもらおう。そうすれば、日本の量子場の中で、別の周波数を通じて、心と心が本当に出会えるはずだ。

この点は大切だ。崇高なものの本質に近づくからである。朽ちゆく相対性の劇場を越え、世界は必ずしも見かけどおりではないと認めること。重ね合わせとは、内なるスイッチをぱちりと切り替えるだけのことなのかもしれない。現実の捉え方を変えるという決断なのだ。

真上から見た丸いテーブルを囲み、数人が色紙の切れ端を寄せ合って輝く太陽を形づくっている。周囲には筆やスケッチブック、ギターが置かれている。

現実の捉え方を変えると決めれば、自由になれる。だが自由には、自分自身の責任が伴う。自ら一員となることを選んだ社会へ入り、自分の才能の積層を役立つ持ち場に置き、ネオ氏族の基礎となる互恵のプロトコルを通じて、調和ある関係を築こう。

あなたが探している人たちもまた、あなたを探している。

切り紙の海景に、アーチ型の扉を載せた岩の島々が点在し、白い橋が島と島を結んでいる。人々はその橋を渡り、夕日に照らされた村へ向かっている。

日本という量子の風景の言葉の中では、親和性が震え始め、扉が別の扉と出会い、いつまでも続いていける共同体が形を成していく。これは実のところ、思念によって形づくられる個人の現実の場では、ごく自然なことなのだ。

たくましい個人は、一人でも耐え抜くことができる。けれど、自分の仲間に囲まれたたくましい個人は、かつて不可能に見えたものを築くことができる。自分のチームを見つけ、この地上の夢の中で、運命を目指す場所にしよう。

描かれた風景がパソコンの画面からあふれ出し、机の上の開いた本へと続いていく。鳥や滝が流れ込み、暗がりには小さな光る画面がいくつも浮かんでいる。

自分の白い紙に、夢、希望、傷、願いを記し続ける人たちは、少しずつ本来の姿を現している。そしてその姿が、ほかの人にも同じことを始める力を与える。

その内なる台本が画面に姿を現すとき、私たちは知性をアニメートするということ、そして存在することの真の意味を目撃する。

小さく折られた紙の器が、緑と金の芽をひとつ抱いている。質感のある紙の上に金色の波紋が幾重にも広がり、その奥には大きな月が輝いている。

始めるときは、今だ。初心に立ち返り、セイティの静かな声に、そっと耳を澄ませよう。「あなたを信じている」。そのささやきが聞こえたとき、内なる世界のすべてが動き出す。

この現実を織りなすものは、新しく考案された主題ではない。それはまさしく、日本のエネルギー場の内を動く、無限のΩNEなのだ。

机の上の一枚の紙が、半ばまで描かれている。上半分は山と滝、太陽の下の紅葉が広がる水彩の風景となり、下半分は白いままである。

ここでは、ファンタジーは現実からの逃避ではない。これから創られるのを待つ現実の、最初の像なのだ。自ら意識して立ち上げた世界に生きること。それは、現実になっていくことの本質に触れることである。

白い紙は、今もあなたの目の前にある。さあ、始めよう。