
カガミ・クリスタル・クリア
日本に暮らしてほぼ四十年。その歳月のなかで私を魅了してきたことのひとつは、この古く、しばしば秘奥に満ちた文明の隅々を探るほどに、理解が少しずつ深まってゆくことである。
太陽を追う、この幻想的な旅の始まりの日々、私はただ驚嘆のうちに立ち尽くすほかなかった。その旅は、ついにはるばる私を日本へと導いた。

日本人の精神について、私の心を最も深く動かしてきたもののひとつが、その内奥に根づく職人の伝統である。
注意深く見つめれば、この感性が日本の暮らしの驚くほど広い領域に映し出されていることが分かる。そこには、この国の産業機構を築き、今なお支えている人々も含まれている。
明治時代、日本は驚異的な速さで近代化し、わずか数十年のうちに近代産業、社会基盤、そして電気設備を発展させた。
その変革のなかで職人の衝動が消えたわけではない。むしろ、精密さ、規律、洗練を尊ぶ習慣は、近代日本のものづくりを引き続き形づくった。

日本文化には、細部まで行き届くことと緻密さを好む傾向が繰り返し現れる。その性質は、無数の品物や技術の洗練と小型化に鮮やかに表れている。
近代日本に出会った外部の者にとって、物をより小さく、より繊細に、より精密にする力は、この国の技術史を彩る驚異のひとつとなった。
こうして私たちは再び職人の精神へ戻る。知識は世代から世代へと運ばれ、技は完成の域へ近づくまで、幾度も磨き直されてゆく。
こうした輝かしい遺産に、人はいかにして偶然めぐり会うのか。それは多くの場合、どこか神秘のままである。
しかし物語を十分に深く掘り下げてゆくと、カガミクリスタル創業者の人生が、ほとんど寓話のように読めてくるのを感じずにはいられない。
光、火、忍耐、そして近代日本のクリスタルづくり。これは、日本という現実の織物に編み込まれた無数の職人遺産のなかに潜む、ひとつの宝石である。
各務鑛三は、1896年3月3日、岐阜県土岐郡に生まれた。

のちに彼は、近代日本のガラスを本格的な芸術工芸の一分野として確立した、中心的な先駆者のひとりとなる。
各務先生は、近代日本ガラスのもうひとりの偉大な先駆者、岩田藤七と並び立つ。岩田がとりわけ色ガラスと結びつくのに対し、各務はクリスタルと結びついている。
学業を修めたのち、彼は数年間学校に残って窯業科で働き、その後、南満洲鉄道株式会社の研究の世界へ入り、陶磁器とガラスに関わる仕事に取り組んだ。
各務が出発したのは、すでに確立された日本のガラス芸術の伝統からではなく、陶磁器、デザイン、そして産業研究の世界からであった。
学業を終えた彼は、学校で窯業に携わったのち、南満洲鉄道株式会社の研究環境へ入り、陶磁器とガラスに関連する仕事を行った。
これは私たちの物語の核心にとって、きわめて重要である。なぜなら各務は、日本のルネサンス的職人ともいうべき精神を体現していたからだ。

彼は単にガラス装飾を学んだ人物ではなかった。素材 → 化学 → 窯炉 → 製造 → 造形 → 装飾 → デザインという、全工程を理解していた。
その体系的な理解が、やがて単なる工房ではなく、クリスタルを一貫して製造する事業を築くことを可能にした。
私たち自身の物語という神話的なレンズを通せば、この非凡な旅の次なる一歩は、彼のセイティの声に導かれた守護神たちの働きであったと想像できるのかもしれない。
史実として分かっているのは、1927年、彼がドイツへ派遣されたということである。

彼はそこでシュトゥットガルト美術工芸学校に入り、著名なガラス芸術家で教育者でもあったヴィルヘルム・フォン・アイフに師事した。そして約一年半をかけ、クリスタルガラスの加工技術、とりわけグラヴィール、すなわち銅輪彫刻とクリスタル切子を習得した。
これが、各務先生の物語における創始の伝承事件となる。
彼は、ただヨーロッパを模倣したのではない。
その技術的文法を吸収し、自らの感性によって変容させ、やがて明確に日本的な芸術言語を与えることに力を尽くした。
その変容のなかで、クリスタルの芸術は、文字どおりにも比喩的にも「カガミ・クリスタル・クリア」となる。

1929年、まだドイツ滞在中であった各務先生は卒業制作を完成させ、KAGAMIの遺産を支える初期の礎を、その歴史的正典へ確かに据えた。
飾皿「祈り」(かざりざら「いのり」)
KAGAMIの記録によれば、ヴィルヘルム・フォン・アイフ教授はこの作品を高く評価した。
今日、KAGAMIは「祈り」を、日本のクリスタルガラスの原点ともいうべき作品であり、同社コレクションの至宝のひとつであると位置づけている。

1930年、彼は東京・滝野川に各務クリスタル工芸硝子研究所を設立し、切子とグラヴィール彫刻による作品を独力で制作し始めた。
その四年後、決定的な一歩が訪れる。
1934年、各務先生は東京・蒲田に各務クリスタル製作所を設立した。クリスタルガラスを専門とする一貫生産設備を備えた、日本初の工場であった。
各務先生は、芸術家と産業創業者という二つの顔を併せ持っていた。
芸術家が単発の展覧会作品をつくるだけでは、日本のクリスタルは決して生きた伝統になり得ないと、彼は理解していた。
彼は、精緻なクリスタルの創造を全体として捉えていた。
素材そのものを生産しなければならない。
窯炉がなければならない。
ガラス職人を育てなければならない。
切子職人を育てなければならない。
彫刻職人を育てなければならない。
会社が存続しなければならない。
そして知識は、次の世代へ渡されなければならない。

この偉業に宿る天才は、単に品々のコレクションを生み出したことにあったのではない。
それは文化的遺産の継承であった。ヨーロッパの職人伝統に根を持つ技術が、日本の創意とルネサンス的な芸術感覚に融合したのである。
その融合は、KAGAMIが歩み続ける軌跡の奇跡の一部となった。カガミ・クリスタル・クリア。

KAGAMIは、創業者の重要な言葉を伝えている。
要するに各務先生は、一時的な効果を追うことを戒め、真に永続する価値を持つものを創るべきだと説いた。
同社はこの哲学を、つくることの精神と情熱を表す「ものづくりの心」へ結びつけている。
各務鑛三は「目先の一時的な創造を慎み、真の価値の創造を追求すべきである」と述べ、KAGAMIが英語で「製造の卓越性への情熱」と表す、ものづくりの心を支持した。
この理念に基づき、KAGAMIは技術と技能を磨き、高度な技術性と創造性を備えた製品への献身を続け、永く使われる高品質なガラスウェアを通して、人々の暮らしへ希望と輝きを届けるとしている。
この根本哲学によって、KAGAMIは高級クリスタルガラスのブランドという枠を、はるかに超える存在となった。

その歴史には、宮内庁、赤坂迎賓館、公式外交晩餐会、日本の大使館・領事館、内閣総理大臣官邸、そして皇室の重要な行事へ納められたクリスタルが含まれている。
上質なクリスタルは、卓越した透明度、輝き、光の屈折、そして澄んだ響きによって珍重される。

KAGAMIは江戸切子でも名高い。しかし、その伝統と、各務が日本へ持ち帰ったドイツの銅輪彫刻の系譜とは、明確に区別することが重要である。
江戸切子は、KAGAMIにおよそ一世紀先立つ。
江戸切子は江戸時代後期の江戸、すなわち現在の東京に始まり、その切子技法は百八十年以上にわたり、専門職人の世代を越えて受け継がれてきた。今日、KAGAMIはこれらの伝統文様を現代的な構成と組み合わせている。
伝統的な文様には、次のものがある。
魚子(ななこ)
六角籠目(ろっかくかごめ)
菊つなぎ(きくつなぎ)
麻の葉(あさのは)
矢来(やらい)
七宝(しっぽう)

現在のストーリーボードにとって、おそらく最も重要なのはこの点である。各務鑛三は1985年に亡くなった。彼の手は止まった。しかし、彼の知識は止まらなかった。
各務先生の知識が届いた広がりは、KAGAMIの現代の職人たちが担う生きた伝統のなかに、今なお見ることができる。そこには次の人々がいる。
岡野裕吉 — 切子職人
稲川征臣 — 切子職人
大関弘樹 — 成形職人
伊勢裕介 — 成形職人
岡部理咲子 — グラヴィール職人
野口友和 — 茨城県伝統工芸士・切子職場長
武井盛彦 — 茨城県伝統工芸士・成形職人
あなたもまた、この生きた歴史が目の前で展開する姿を見ることができる。
KAGAMIでは現在、毎月第四水曜日に予約制の工場見学を実施している。通常見学は13時30分に始まり、所要時間は約50分、参加費は無料である。
この先駆的な職人の精神は今も生きている。そして継承の鎖が途切れないかぎり、幾世代にもわたって生き続けるだろう。
文化的誠実さを宿すこれらの傑作を照らす波動は、美しいものを愛する人々に、各務先生が遺したクリスタルのレンズを通して世界を見る機会を、今なお与えている。
そして親愛なる読者であるあなたにも、自らの人生を異なるレンズを通して見つめ、カガミ・クリスタルの澄明さをもって世界を見ていただければと、私は願っている。



