
脱おバカ賢人へ
人は誰ひとり、自らが生まれ落ちる境遇を選ぶことはできない。実際のところ、誕生とは、無限の地平に点在するおびただしい神々のうち、氣まぐれな一柱の指先に導かれた偶然の営みに見えるのかもしれない。
もしかすると、この地上の旅の始まりに一人ひとりへ割り当てられた境遇は、何らかの量子ゲームの一部なのかもしれない。どうやら誰もがウェットウェア・シミュレーションに参加しているらしく、それは奇妙であると同時に、精緻なまでに素晴らしいものなのだ。
どのような家族に生まれようとも、どのような境遇を人生に塗りつけられようとも宗教的な刷り込み、国家による教化、さらには銀の匙をくわえて生まれたか否かも含めてか所にとどまり、車輪を空転させながら、動いているだけのことを前進と取り違える言い訳にはならない。

この厄介なマトリックスを通り抜け、その先に自らの道を見いだす方法は、本当のところ一つしかない。出発線がどこに引かれていたかにかかわらず、自分が想像した以上の存在になろうとする者には、個人主権が不可欠である。
個人的な経験から言えば、最も不愉快な始まりの一つは、産業教育複合体へショベルで放り込まれたことだった。そこは、「おバカ化」されたシステム・クローンを次々と型抜きするために造られた、巨大な制度機械である。
蚊ほどの集中力しかなかったため、教室の前方に配置された政府雇用のシステム・クローンたちが垂れ流す単調な話など、愛を積まれようが金を積まれようが、どうしても聞いてはいられなかった。

きっと多くの人が、産業教育複合体の至るところで、この光景の何らかの変奏が何度も繰り返されてきたことに同意するだろう。
あの不愉快な泥沼をどうにかくぐり抜け、それでも好奇心を無傷のまま保てた者は、自分の背中を大いに褒めて叩いてよい。
彼らこそ、飼いならされることへの生来の抵抗力によって、否応なく独学者となる自由奔放なアバターである。どうだ、なかなかのものではないか。
人間とは、どれほど立派な資格や肩書を持っていようとも、必ずどこかの領域ではおバカなままの生き物だと認めること。それこそが、「よりおバカじゃなく、もっともっといちばん賢く」なり始める第一歩である。
それは、慎ましき謙虚の神々の御前に頭を垂れ、存在に満ちる無限の謎を、生涯にわたって学び続ける者であることを選ぶということだ。

真の問題は、制度による認定と知性とを混同するという、繰り返し現れる、何とも不愉快な現象から生じる。
資格を備えた者たちは、有用な専門知識、複数の学位、職業上の権威、そして名誉ある肩書を携えて、何度も何度も姿を現す。ところが、その多くには、好奇心、自己認識、適応力、感情的知性、あるいは独立した判断力が、ほとんど備わっていない。
この現象との個人的な遭遇は、1980年代後半の日本で始まった。
多くの外国語指導助手が、さまざまな学位を引っ提げてやって来た。しかし、それらの資格が実際にどれほど優れ、役に立つものだったのかは、しばしば大いに疑わしかった。

教育を受けているはずなのに、驚くほど多くの者が、最高位のシステム・クローンにしか見えなかった。
知識とは、その人が蓄積してきたものである。
頭の良さとは、その蓄積された情報を、どれほど効率よく操作できるかである。
知性とは、物事を見抜き、適応し、一見無関係に見える点と点を結び、初心の心を携えたまま世界と向き合い続ける力である。
智慧は、その人が実際の人生をどれほど知性的に生きているかによって明らかになる。
ゆえに、「よりおバカじゃなく、もっともっといちばん賢く」とは、人間的熟達へ至る道なのである。

そして物語は、いつも本来の落ち着き場所へと戻ってくる。すなわち、この時空の量子場では、好奇心こそがゲームの名なのだ。
賢そうに見えることより、好奇心のほうがはるかに重要である。好奇心は、親、学校、職業、国家主義、宗教、そして経済という巨大機械が用意した、鳩舎の狭い仕切り箱からの出口を照らし出す。
教授は、自らの専門という狭い境界の外へ一歩出れば、途方もなく愚かであるかもしれない。一方、無教育と見なされる者が、並外れた直観、実際的な洞察力、感情的知性、そして惜しみないほどの精神的深みを備えていることもある。
まだ氣づいていない者のために言えば、資格信仰主義はすでに、準宗教的なカルト現象と化している。

卒業生は、規格化された労働者ユニットとして次々と打ち抜かれ、公式に『賢い』と認定された多くの者は、知的に身動きできなくなる。
彼らの会話は浅く、反復的になっていく。教科書から引き抜いた考えを、あたかも啓示であるかのように唱えるばかりで、制度的確信の極小の頭の中には、独創的な思考の一つさえ、からからと転がってはいない。
産業教育の乱戦から脱出するには、人間的熟達を追求し続けるという、永久の決意が必要である。
日々の務めは、ほんの少しだけ『よりおバカじゃなく』なり、ほんの少しだけ『もっともっといちばん賢く』なることだ。
そのために必要なのは、初心の心、自らの無知を認める謙虚さ、そして新鮮で、奇妙で、生き生きとした何かを追い求める好奇心である。それはちょうど、毎朝の夜明けに勇氣を振り絞って立ち向かわねばならない、一日一膳の納豆のようなものだ。



